Home > アーカイブ > 2013-03

2013-03

55

今日、私は、55歳を迎えた。 
一昔前なら、定年退職の歳だ。
 
そして実は、
今月の頭には自主的に定年を迎えるつもりさえ
あった。 

 
5784D 
 
 
去年の誕生日には、
可能な限り公平な環境作りを進めたいと、
書いた。
 
そしてそれは嬉しい事に、確かな形となって実現できた。
(勿論、完全な形ではないけれど)
 
ただ、公平を実現したいと言ったからには、  
スジを通し、決まりを守るのは当たり前。
 
過去に設定された管理職規定の準用により
55歳定年となっている管理職を退くのも道理だ。
 
そして退いた後、
今の私にできる仕事は身体のせいもあって多分存在しないから、
ならば次の生き方を・・と考えていたのだ。
 
だがその規定は昨日の会議で正式に解除され、
まだ頑張れる事があるだろう今の仕事を、
続けられる事となった。
  
 
今年のテーマは
「持続可能」
 
いつまで私が頑張れるかわからないし、
属している集団での時間も、長くない。
 
だから次へ繋ぐ事や、道筋、道標、
そして仕掛けは、
できるだけしておきたい。
  
だが問題は、
その「精神」がちゃんと伝わるかどうか。
 
 
今年の新入社員は
「自走型ロボット掃除機」と表現される。
 
障害を避け、器用に掃除(→仕事)をする事ができても
障害を乗り越える事はできず、障害だらけだと動けなくなる・・・
というパターンがあるとか。
 
しかしそれは、新入社員に限らず今の多くのスタッフにも当てはまり、
ひょっとしたら社会全体の傾向かも知れないと、思ったりもする。
 
 
例えば、ある問題が起きた時、
「問題点を追求するより対処が先」という考えを持たず
「何故こうなった?」と怒鳴る上席がいたら?

そう、その問題は大きくなるばかり、だ。
 
本来上席は、
速やかに優先順位を判断し、
解決のための道筋を示し、
チームを有機的に動かす義務がある。
 
なのにそれを行わず「何故こうなった?」と怒るなら、
それは、問題に対する責任回避(犯人捜し)を考えている、
という事になる。

そしてその時点でその上席の存在価値は
「害」になるワケだ。
  
 
これは「テクニック」の問題ではなく
「常識」の問題だ。
 
そして私の世代がなんとなく持っていたそんな「常識」が
どうやら「融通の利かない面倒な事」として捉えられ
大多数の非常識に取って代わられてしまったように、感じている。
 
だからこその「持続可能」だ。
 
その「精神」と「仕掛け」を
どれだけ施す事ができるか。
 
それを今年のミッションとして
もうちょっと頑張ってみようと思っている。

春うらら

ここのところの悩みは
不公平。
 
世の中「好き嫌い」と「運」と「タイミング」で
どうしても不公平になるもの。
 
それに一々腹を立てても意味無いと諦めはつくし、
無駄なエネルギーを使わないように生きてもいる。
  
でもまた、
以前のように、心に痛みを伴う動きを余儀なくされて、
それを強いている人達には嫌気も感じ、
同時に自分の中で消化できない気持ちが生まれて、
正直持て余しているのだ。
 
 
今の世の中、私見だけど
自分だけの事を大事に動く人が生き残り
物も言わず必要な事を行う人は忘れられるように、見える。

そしてそれは、
人間社会では当たり前の事だと、思ってもいる。
  
それでも昔は、世の中を客観視できる人が多くいて
黙々と作業する人達に労いの言葉もかけられていたから、
救いがあったのだろう。
 
そして必要な事を黙々と作業する人達が多くを支え、
その上で胡座がかける事を知っている人が上に立って
社会はどうにか「スジ」を保っていけたのだと、思う。
 
 

4515D

 
 
今は「スジ」も「ルール」もそっちのけ。

アピールした者が勝つばかりの世の中になって、
「恥」も知らず「誇り」も持たず、
「勝ち負け」と「損得」だけを物差しに
利己主義に生きる人達が社会を動かしているように、
見えてしまう。
 

いや、良いんですよ。
「ギブアンドテイク」がちゃんと為されるのなら。
公平に扱われれば、腹もたちません。
  
でも
テイクする人ばかりが偉そうで
ギブする人ばかりがすり減っていて
折り合いをつける範囲を超えているように
見えているんですよ。
  
「決まり」や「スジ」を考えて
用意周到に準備はしても、
僭越や越権をしないように動いても、
指示は無いから、それ以上は動けない。
 
なのに
「何もしない」
と詰られて禄を削られるなら
やっぱり我慢は難しいって事・・なんですよ。
 
 
 
身体に無理が効かないから
ローライドなスクーターか軽いオフ車でも買って
どこかにプラッと行ってしまおうか・・・と思っちゃうのは 
気持ちよさそうに走るライダーの姿を見かけるからか。
  
今の時期のバイクは
楽し過ぎるからね。
 
 
明日、
笑っていられるかなぁ・・・・

早すぎる

4428D

 
 
     今年の桜は、もう満開?という状態。
     
     早すぎるね〜と呟いても
     季節がなんだかおかしくなっているから
     観測史上初めて・・な天候にも驚かない感じなってきた。
 
     早すぎると言えば
     キヤノンのEOSkissのモデルチェンジ。
 
     実は、暗いところが強いだろうから・・・と
     先週EOSkissX6iを購入していた。
 
 
5511-1D
 
 
     かねてから購入しようと思っていたのだけど
     その暇が無くタイミングがなかった。
 
     で、先週やっと時間が取れて写真関連の材料を仕入れに行った際
     値引きされていたボディを買ったのだが、
     キヤノンお得意のキャッシュバックキャンペーンもあって
     何か新型が出るな・・とは感じていた。
     
     EOS7Dが出てから長いので新型になるのかな?
     と想像していたけど、kissとは思いもしなかった。
 
     と言うのもkissX6iは去年の6月に発売で、
     モデルチェンジが早いエントリーモデルでも
     10ヶ月で新型が出るって・・・ねぇ(^_^;
 
 
     スペックを見れば、撮影等の機能は同じで
     ボディサイズが小さくなっただけ。(デジタル1眼では世界最小らしい)
     
     現在の大きさでも充分に小さいので
     これ以上小さくなったら撮影しにくいかも・・・
     とも思うけど、ライダーが旅行に持っていくには良いのかも。

     でも新型のX7とX2を比べてみると、
     幅が12ミリ、高さが6.8ミリ小さいだけで
     奥行きはX2の方が7.3ミリ小さい・・という感じで
     凄く小さくなったワケではなさそうだ。
     
     そして同時に発売されるX7iはX6iと同じサイズのボディを使い、
     塗装やダイヤル等の化粧を変えただけの「なんちゃって新型」だという事も、わかった。
     (機能もサイズも一緒だし、素人向けのプリセットが増えてもねぇ)
 
     目先を変えても、私のような使い方の人にとっては、新型は必要無い・・・
     という事になるのだけど、なんとなく旧型を持っているのが嫌な人には
     売れるのかも知れないね(爆)
 
     ただ、X6iを買った日、同時にiPadまで買ってしまって、
     ストレスフルな毎日の鬱憤晴らしもしちゃったりしてた(^_^;
          
     そのおかげで、kissとAir11を機能的に収納できるバッグをポイントで購入できたのは
     ラッキーだったけど。
 
 
5564D
     
  
 
     カメラにしろタブレットにしろ、新しい物を使ってみると驚かされる。
 
     性能がかなり良くなっていて、実に魅力的。
     だけど同時に、いい加減に使う事を許さないような
     環境整備からやり直しをさせられるような
     そんな思惑が見えてしまうからだ。
 
     例えば写真を例にあげてみると
     
     Retinaディスプレイは2,048 × 1,536ピクセルの解像度があり
     以前のディスプレイ1,024 × 768ピクセル見るよりも
     遙かに大きなサイズの写真データが欲しくなるのだが
     その大きなサイズの写真加工にはハイスペックなPCでの作業が求められ
     その結果、現在のPCやソフトをアップグレードしたくなる・・・
     といった感情的誘導がなされてしまう、と(爆)
 
     たぶんこれも、ビジネスモデルとして考えられている事だろうけど
     地デジ化により無理矢理HD化された動画環境も同じ様な構造があるから
     メーカーはこうやってハイスペック化をさらに加速させる事でしか
     新しいニーズを掘り起こせないと思っているんだろうね。
 
      
     でもさぁ
     iPadのRetinaディスプレイ(2,048 × 1,536ピクセル)って
     27inchのiMacディスプレイ(2,560 × 1,440ピクセル)と同等なんだなって思ったら
     MacBookProのRetinaディスプレイ版なんて、恐くて使えなくなったよ。
 
     今と同じような使い方を求めたら、
     どれだけのメモリーやストレージが必要になるんだろう?・・とか
     そもそも画質の悪い写真や動画は見る気にならなくなる・・とか(それがメーカーの狙い?)
     余計な事に苛ついたり金がかかったりしそう、だからねぇ(^_^;
 
 
     あ・・・
     そうか。
 
     最近写真のサンプルのサイズに、長辺2000ピクセル以上のデータを求められるって
     写真をiPadで見てるって事なんだね(・.・;
     
     業界をまたぐ収益構造に乗りたくないのに、
     そうやって外堀から埋められてしまうのか。
      
     くわばらくわばら・・・

思う事

0517D
 
 
その男は、長い灰色のコートを着て
その上から重そうなリュックサックを背負っていた。
 
入口を入ると、一番近い4人掛けのテーブルに陣取り、
リュックをドスンと椅子に落とし、その上に無造作にコートを脱ぎ落とす。
 
 
「熱いお茶をくれ」
 
 
それは、 
夕方、まだ陽が落ちきっていない頃、
6人掛けのカウンターと4人掛けのテーブルが3つある
饂飩専門店での事だった。
 
「いらっしゃいませ」と声をかけられても反応しなかった彼は
開口一番に恐い口調でそう命令する。
 
若い女性店員が飛び跳ねるように彼に近づき、
そしてお茶を淹れるべく水屋へ向かった。
 
 
「おい! 暖かいお茶じゃなくて、
 熱いお茶だぞ!」
 
「はい」
 
 
なんとも乱暴な客だな、と思うが、
年の頃を見れば70を過ぎた感じもするので、
その世代独特の偉そうな態度なのだろうと推察した。
 
 
「お待たせしました。」
 
「あ・つ・い・お茶、だろうな?」
 
「熱くしました。」
 
「そうか。
 この、ざる饂飩をくれ。」
 
「太麺と細麺がございますが・・・」 
 
 
そう、彼が頼んだのは、一番安い饂飩。
でも饂飩その物を楽しむには、一番良いチョイスなのかも知れない。
 
そして彼はつまらなそうな顔をしてお茶をすすり、
しばし虚空を見るように、静止する。
 
熱くないって文句でも言いたいのか?
と思った途端、彼が口を開いた。
 
 
「ちょっとさ、金下ろしてくるから出るよ?」
 
 
そう言い放って彼は、荷物を椅子にぶちまけたまま
外へ出て行く。
 
おいおい
熱いお茶をゆるゆると楽しむんじゃないのか・・・?
 
そして店内に流れていた妙な緊張が緩み
私は山芋と生海苔の磯辺揚げをつまみに
生ビールを楽しむ時間を取り戻した。
 
 
思うに、同じ事を言うにしても
見るからに上品な老紳士が優しく穏やかなトーンで
かつ笑顔を交えて言ったら、こんな緊張は生まれないだろう。
 
店の人も面倒な客だって思わないだろうし、
同席する他の客にしてみれば「何様?」ってむかつく事も無い。
 
つまり、ただワガママで偉そうな空気を振りまく事が
自分の想像以上に回りを不快にしてしまうって事なのだ。
(事実、その男の態度でビールが不味くなったのだしね)
 
 
と、そこにまた、あの男が挨拶もなく店に入ってきた。
 
 
「おい、熱いお茶をくれ、熱いのをな。」
 
 
なるほど、この男はこうやって
自分で放置してぬるくしたお茶を換えろとワガママを言うのだな。
 
どこにでも、必要以上に回りを不快にする奴はいるのだね。
 
 
「お待たせしました、ざる饂飩です。」
 
「おい、紙のエプロンは無いのか?」
 
 
え?
ざる饂飩を食べるのに、紙のエプロンが欲しい??
 
彼のオーダーした饂飩は、680円。
 
この店は最初の2玉まで同じ値段で出す庶民的な店で、
関東の饂飩屋としては頑張ってる部類だと思うから
紙のエプロンなんて常備していないのでは・・・
と思ったら、店員が持ってきた。
 
 
その男を見れば
きっと誰も相手にしないクソジジイなんだろう、とは思う。
 
だが、物言いや態度一つで同じ事を言っても空気が変わるのだから
彼はその態度で充分に嫌な空気を吸う事で、
知らず知らずのうちに罰を受けているのだろう、とも思う。
 
ここのところ、
物理的に無理なオーダーに痺れ、
無神経な行動や言動に苦しめられ、
それでも努めて無感情でいようと努力していた。
 
だがこの男の姿は
そんな無神経な人間の成れの果てであろうし、
年老いて暇を持て余して散歩する時に
一緒に食事を楽しむ仲間も居ないという孤独さは
自分が引き寄せた環境だと、教えてくれてもいる。
 
 
4663D
 
 
どんなに大事にしていても、
自然の力がそれを奪う事だってあるのだから、
今、生きている事に感謝して、
できる範囲で回りにも優しい空気が流れるような生き方を
心がけたいと思う。
 
ただ
何も言わずにじっと耐えていても
耐えている事が既に重い空気を醸してしまうから、
望む事は声にしようとも、思う。
 
会いたい時には
会いたいって言おう・・ってね。

塞翁が馬

4490D
   
 
それはあっけなく、言い放たれた。
ごく、当たり前の様に。
  
少しばかり納得がいかず問いただすと、
私の言い分に対し、計算がなされた結果だと
わかった。
 
春の気配が見えだした今、
「別の道」は敢えて選ばない限り、必要が無くなる状況となった。
 
 
それはそれで必然か?
とも、思う。
 
まだ役目が残っているのか?
とも、思う。
 
いずれにしろ、今暫く成り行きを客観しながら、
幕を引くタイミングを計る毎日が、続くだろう。
 
 
しかしもう
決めてしまった心は、変わらない。
  
同じ事態が起きるのなら、
同じ動きをするだけの事。
 
自分らしく生きる事が
自分の生き方に従う事が
納得いく路に繋がっている。
 
それを知っているから
そこにこそ価値があるから
気持ちにブレは起きるはずもない。
 
見切ってしまった己の嵩も
自由に生きたい気持ちに力をくれた。
 
 
今年の春は
きっと綺麗に見えるだろう、ね。

 

 

Home > アーカイブ > 2013-03

検索
フィード
メタ情報

Return to page top