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2008-05

イエスか釈迦か?

「あのね、キリストって右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せって教えるじゃん」

「うん。
 だけど、随分いきなり、高尚な話だねぇ?」

「いいから聞いて。
 で、釈迦はね、違うんだって」

「釈迦・・・」

「釈迦は最初から、打たれないように生きろって教えるんだってさ」

「はぁ・・・なるほど。」

「誰かにイラッとする時は、自分がイラッとしてるんだし、
 敵が多い人は、勝手に他人を敵として見てる傾向がある・・・と。
 だから釈迦は他人を敵にしないように、自分を戒める方向の教えを説いてるのね。」

「たしかに。」

「キリスト系の生き方と釈迦系の生き方、どっちが好き?」

「そりゃ・・・釈迦系だな」

 

他愛の無い話をしている時、突然始まった禅問答。
でも、こんな会話は嫌いじゃない。

 

「なんかね、最近思うんだけど、
 無意識に敵を作ってたんじゃないかなって・・・」

「そりゃ、しょうがないよ。
 頼れるのは自分だけって生き方だったし、
 実際誰も助けてくれはしなかったでしょ?」

「・・・うん」

「で、そんな君が何故、こんな話を?」

「そういう見方を教えてくれた人が居てね。
 なんか最近、苦しんでいるように見えるから、その考えを分けてあげよう・・と」

「ありがと。
 でも・・・そうか、誰かを敵視してるように見えてるって事なんだろうな」

「そうじゃないの?」

「俺ってさ、仕事には私情を挟まないし
 誰かを蹴落とそう・・とかも思わないから、
 基本的に誰かを嫌うって事はないんだけどねぇ」

「それが・・・嫌われる最大の理由なんじゃないの?」

 

まぁ、人は他人を疑ってみる傾向があるから、
客観性をもって話をする人間は少ないだろう。

その人間が間違いなく敵ではないと納得するまでは、
警戒を解かないで付き合うのは自己防衛本能なのだから仕方ない事だ。

だがそれにしても、
客観性を持って物事を伝えても、
そこには主観が混入し、意識的に操作された発言だ・・・
と、決めつけて受け取る人は多いのかも知れない。

 

「あのさ、何故キリストと釈迦が違う教え方をするかわかる?」

「え?・・・
 なぜだろう、そこまでは考えてませんでした。」

「ちょっと想像するとわかる・・・と思うけど?」

「う〜ん」

「ヒント、『三つ子の魂百まで』」

 

最近の若者は・・・という言葉は、どの時代にも存在する。

それは、世の中が確実に変化していて、
それぞれの時代に育った経験が、大人の仲間入りをする頃、
成熟した社会とは違った生き方に反映されているからだ。

殺人事件なんて起きないし、
玄関に鍵をかけなくても誰も泥棒に入らない社会に育てば、
今の社会は信じがたいほど酷い社会に見えるだろうが、
殺人も強盗も政治も信じられない社会に育てば、
「やられる前にやれ」という常識を持って育っても可笑しくない。

そんな育ちをした若者達が非常識だ・・・とは、
言えない社会が来るとしたら、恐い事だ。

 

「キリストは母子家庭に生まれて育ち、
 釈迦は裕福な家に生まれて何不自由なく育った。
 それが、他人を愛する行為の形の違いに現れたって事さ」

「そう考えると面白いね」

「今は表面的に裕福で何不自由の無い社会。
 でも、精神的や文化的には貧しい社会に見える。
 そんな時代には、どっちの考えが必要なんだろうね」

「で、あなたはどっちなんだっけ?」

「釈迦系・・・」

 

すいません、やられたら反射的にやり返しちゃうんで、
やっぱ「最初からやられない生き方」に徹したい・・と強く望みます(/–)/

逆鱗

「逆鱗に触れる」という言葉がある。

逆鱗とは、龍のアゴの下にある一枚だけ逆さに生えた鱗の事で、
それに触れると、龍は怒って触った人を殺す、と言われている。

つまり「触れてはいけない物」という意味をそれに準えるわけだが、
そんな逆鱗に触れるような行動を取ってしまう人間が複数いて、
いささか呆れはてる事が最近多く起きている。

 

ホラを吹いて、実際に追い込まれて破綻するとか、
あまりに見え透いた嘘をついても、本人は騙せていると思いこんでいるとか、
自分の立場をわきまえずに従うべき立場の人にケンカを売ってしまうとか・・・

それらが個人的な領域で起きて、
個人的に対処する事で収束するなら問題は無いが、
これが会社だったりグループだったりする限定された社会の中で起きると、
その社会全体の責任問題にも発展して、
問題を収束させるのにかなりのエネルギーが必要になる。

ただ、そうなる前に何か手を打とうと努力しても、
会社という社会の中では裁定権を持つ上席の判断が必要となり、
得てして手遅れ・・・という事態に陥る事もまた、多いのだ。

 

我が身を振り返ってみると、自分にもそんな逆鱗は存在しているが、
どうも他人よりはその大きさが小さいようにも、思っている。

と言うのも、若い頃こそ瞬間湯沸かし器のように激昂するタイプであったが
今は余程の事が無い限り、腹が立っても怒鳴るような事は無くなったからだ。
(要は、怒っている時間もエネルギーも無駄だと思うワケで(^_^;))

ただ、そんな私でもブチッと切れる事はあり、
怒鳴って机を叩くような事態もまた、あったりする今日この頃、なワケだ。

 

で・・・・
自分なりに自分の逆鱗はどこにあるのか?と考えてみて、
気付いた事がある。

口先だけで誤魔化そうとする行為、
見え透いた嘘をついて自分の立場だけを守ろうとする行為、
家族や家族同様に愛している人間に近寄る行為・・・と、
要は自己中心的に生きていて
私自身が大切にしているエリアに土足で入り込んでくるような行為は、
それを美辞麗句で誤魔化そうとされたりすればするほど、
私の逆鱗に近づく・・・という事。

 

でもさ・・・
逆鱗に触れられてもある程度は笑ってスルーする位は、
歳も食っていたりするのさ。

それに、ある程度我慢して時間をかければ、
私が嫌がっている事に気付ける人もいるわけで、
その為にも、「待ってみよう」と経験が私に忠告してくれて・・・

で、
歳を食うって悪い事じゃないな、と、
思う毎日だったりするわけです。

しかしさ・・・
マイペースに生きる人達には、敵わないねぇ・・・(/–)/

僭越?

ここのところ、スチールの仕事が重なっている。

それはここ数年でも珍しいほどの頻度で、
その結果、レンズやカメラの調整に必要な時間が取れなくなっている。

自分の人生を振り返ってみれば、
ある時は動画、ある時は文章、ある時は数字、
そして写真・・・と、かならず何年かのサイクルをもって、
そういった仕事に就く事は、わかっている。

だが、久々にこれだけ仕事という立場で撮影をしていると、
見える物が随分と変わってしまうようで、
他人の仕事を無意識にチェックするような事さえするようになってしまう(^_^;)

 

だが一方で、
自分が何をしたいのか、何を表現したいのか・・・・
と言うごく当たり前な命題が、自分の中で価値を持たなくなってきたのも事実。

価値・・・と言うのも、ちょっと違う。
どっちかと言えば、欲があまり出ない・・感じか。

ただただ自然に、感じたままを撮る・・・というのが楽で、
自分らしいと思えるし、そのスタイルでしかできないワケで。

どこかで、何かの魂を生かす場所を作るような制作は、
間違いなく何かの役目を背負ってなされていて、
そういった役目を果たしきるまでは、きっとそれを続けていくものだが、
私がやっている何らかの制作は、そこまで重いものでも無いように感じてしまう。

で・・・
自分を搾って、どうにか何かを抽出するような事はやめて、
何かを出したくなった時、出そう・・・と思うようになったワケだ。

 

だが・・・
なんか違う・・・ようにも感じている。

それはやっぱり、
制作という形の中だけで生きる魂の叫びにも似た何かを感じてしまったりすると、
自分にも何らかの役目がまだ残っている・・・
と叫ぶ別の自分を見てしまうからだろう。

 

今年いっぱい、生き延びられたら、
来年の年明けにでも、何かを発表する事を考えようか・・・
写真展でも良いし、Movieを企画しても良い、と。

そんな事を考えたりするのは
僭越というものだろうか・・・ねぇ?(^_^;)

呆れた

新聞社のHPは、新聞を定期購読する気の無い人間にとって
大切なニュースソースの1つだと思う。

で、各社のRSS記事は一通り目を通すのだが、
これって新聞ネタなの?
と思うような記事があって、正直笑った。

それは朝日新聞のHP「asahi.com」に載った記事で、
タイムスタンプは2008年05月13日19時08分
タイトルは「士郎と海原雄山、ついに和解 「美味しんぼ」25年で」
となっていた。

25年という長きに渡る連載漫画「美味しんぼ」の内容についての記事だが、
文化一般欄とは言え、漫画の内容についての記事というのは、
いかにも今の社会人の子供化が現れた証拠と言っても良い。

もちろん世間的にはあまり認知されていないが、
ニュースにも広告を目的としたソースが混在しているのが現状で、
そういう意味ではトップ記事ではないから取り上げ方としては良いのかも知れない。

しかし・・・

一漫画家の作るストーリーを朝日新聞というビッグネームが記事にするのは、
如何なものだろうか?

正直私は「世も末だ」と感じたのだが・・・

今日まで、そして明日からも

10年かけて培った技術は
10年かけて壊しきって、やっと自分がわかる・・・と
ある板前が言っていた。

そしてさらに10年、無から積み上げてやっと
自分が解った・・・と。

 

最近やっと、
自分はこれができる・・・と自信を持って言っても良いと、
なんの気負いも無く思えるようになった。

そしてそれが、
経験を積む・・・という事なのだ、と気付く。

 

今年は、色々な事が見えてしまう年らしい。

そして、半世紀を生き抜いた自分には、
それが紛れもない現実だと、感触を伴った理解ができるようになった。

 

美辞麗句で飾った虚像は、恐くない。
威しも世辞にも、心は動かない。

それらには、自分の意識を向ける事さえ、
無駄に感じられるだけの事。

そんな当たり前な事に、
どうして今まで振りまわされてきたのだろう・・と
思い知る毎日だったりする。

 

様々なシーンで、見苦しい行いをしている人は、
その考え方も生き方も、やっぱり見苦しいものだ・・とわかってしまったら、
「大人になった時、自分の顔や姿に責任を持たなくてはいけない」と言った
先達の言葉の意味もわかる。

そして今・・・
それでも今・・・
まだまだ、素直に生きている自分を理解してくれる人が少ない事を知るのは、
残念と思いつつも、どうでも良い事だと気にしないで生きる事ができている。

 

だからきっと、私は幸せなのだろう。

一人きりで生きていても、一人きりでは無い事を知っていて、
求める事も求められる事も、生きている感触してちゃんと存在していて・・・

だからやっぱり、私は幸せなのだろう。

 

そして今日も、
どうにか生き延びたって事らしい。

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