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イエスか釈迦か?

「あのね、キリストって右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せって教えるじゃん」

「うん。
 だけど、随分いきなり、高尚な話だねぇ?」

「いいから聞いて。
 で、釈迦はね、違うんだって」

「釈迦・・・」

「釈迦は最初から、打たれないように生きろって教えるんだってさ」

「はぁ・・・なるほど。」

「誰かにイラッとする時は、自分がイラッとしてるんだし、
 敵が多い人は、勝手に他人を敵として見てる傾向がある・・・と。
 だから釈迦は他人を敵にしないように、自分を戒める方向の教えを説いてるのね。」

「たしかに。」

「キリスト系の生き方と釈迦系の生き方、どっちが好き?」

「そりゃ・・・釈迦系だな」

 

他愛の無い話をしている時、突然始まった禅問答。
でも、こんな会話は嫌いじゃない。

 

「なんかね、最近思うんだけど、
 無意識に敵を作ってたんじゃないかなって・・・」

「そりゃ、しょうがないよ。
 頼れるのは自分だけって生き方だったし、
 実際誰も助けてくれはしなかったでしょ?」

「・・・うん」

「で、そんな君が何故、こんな話を?」

「そういう見方を教えてくれた人が居てね。
 なんか最近、苦しんでいるように見えるから、その考えを分けてあげよう・・と」

「ありがと。
 でも・・・そうか、誰かを敵視してるように見えてるって事なんだろうな」

「そうじゃないの?」

「俺ってさ、仕事には私情を挟まないし
 誰かを蹴落とそう・・とかも思わないから、
 基本的に誰かを嫌うって事はないんだけどねぇ」

「それが・・・嫌われる最大の理由なんじゃないの?」

 

まぁ、人は他人を疑ってみる傾向があるから、
客観性をもって話をする人間は少ないだろう。

その人間が間違いなく敵ではないと納得するまでは、
警戒を解かないで付き合うのは自己防衛本能なのだから仕方ない事だ。

だがそれにしても、
客観性を持って物事を伝えても、
そこには主観が混入し、意識的に操作された発言だ・・・
と、決めつけて受け取る人は多いのかも知れない。

 

「あのさ、何故キリストと釈迦が違う教え方をするかわかる?」

「え?・・・
 なぜだろう、そこまでは考えてませんでした。」

「ちょっと想像するとわかる・・・と思うけど?」

「う〜ん」

「ヒント、『三つ子の魂百まで』」

 

最近の若者は・・・という言葉は、どの時代にも存在する。

それは、世の中が確実に変化していて、
それぞれの時代に育った経験が、大人の仲間入りをする頃、
成熟した社会とは違った生き方に反映されているからだ。

殺人事件なんて起きないし、
玄関に鍵をかけなくても誰も泥棒に入らない社会に育てば、
今の社会は信じがたいほど酷い社会に見えるだろうが、
殺人も強盗も政治も信じられない社会に育てば、
「やられる前にやれ」という常識を持って育っても可笑しくない。

そんな育ちをした若者達が非常識だ・・・とは、
言えない社会が来るとしたら、恐い事だ。

 

「キリストは母子家庭に生まれて育ち、
 釈迦は裕福な家に生まれて何不自由なく育った。
 それが、他人を愛する行為の形の違いに現れたって事さ」

「そう考えると面白いね」

「今は表面的に裕福で何不自由の無い社会。
 でも、精神的や文化的には貧しい社会に見える。
 そんな時代には、どっちの考えが必要なんだろうね」

「で、あなたはどっちなんだっけ?」

「釈迦系・・・」

 

すいません、やられたら反射的にやり返しちゃうんで、
やっぱ「最初からやられない生き方」に徹したい・・と強く望みます(/–)/

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