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2011-03

Bad news travels fast.


 
 
朝、9時に行けば満タンにしてくれる・・
というデマが流れたスタンドが渋滞を引き起こす。
 
17日までにマグニチュード7クラスの地震が来る可能性は70%と気象庁が発表すれば、
必要以上に水や食料を備蓄する人は嫌でも増える。
 
でも、物流が麻痺している状況で、
被災地に向けての移送が始まっている今、
そもそも物が無いのが横浜の現状なんだろう・・と思う。
 
自宅には米が無く、トイレットペーパーも底をついてきたけど、
どこにも無いから悩んでいる。
 
ねぇ・・
オイルショックじゃないよ?
 
必要な時必要な物を手に入れれば良い環境に居るんだから
いつもよりたくさん買うのはやめませんか?
 
って思いつつも、物が無いんじゃしょうがないか・・とも思う。
 
 
こんな悲惨な時に、マネーゲームを仕掛ける連中はやっぱりいて、
支援にも必要な金を、日銀は市場介入に投じる。
 
誤解は世界を駆け回って、
外国では、東日本は使えなくなる・・との報道さえ出てきている。
 
 
さて、私はどうしよう。
 
こういう時は、時流に乗るのが良い。
デマには流されず、必要な事だけを過不足無く・・・
という事でしかない。
 
 
まだ電気は流れてるし、水もある。
 
※計画停電のサーチ用サイト「計画停電.cpm」
 http://keikakuteiden.com/
 
パスタはあるから当面食べられるし、
トイレットペーパー無くても、洗えば良い。
鼻水はタオルで受けて・・・と(^_^;
 
放射線量もあの爆発以降は落ち着いていて、
現場の努力が実っている事が覗えるから、
慌てる事も無いワケで。
 
※神奈川県が発表しているリアルタイム放射線測定値
 http://www.atom.pref.kanagawa.jp/cgi-bin2/telemeter_map.cgi?Area=all&Type=WL
 
 
今の横浜に起きている事は、
次の震災の時の教訓にもなっていくから、
(地震国であるから次回を避ける事はできない)
自分なりの記録をしよう。
 
例えばこんな稚拙なブログに上げる事でも
きっとそれなりの意味はある、と思う。
 
 
できる事を考える事。
それは、日常でも大切な事。
 
言われた事だけをしておけば良いと思う人は、
生息する社会の中でイニシャチブを取れる立場になる事は無く、
これから始まる日本復興の勢いに置いて行かれる可能性だってある。
 
あまりに何でもそろう社会に慣れきった自分を、
昭和の何もなかった時代に置き換えれば、
実はそう大変な事じゃない・・と気づけるのだし、
結局、経験が助けてくれるのだと、確信する事もできる。
 
 
まぁ
私利私欲に走らず、マイペースで暮らせ・・・
という事に尽きるんでしょうね。

帰ってきました。


 
 
外から見る日本は、
不思議な国に見えました。
 
何故、日本人は暴動も起こさず、
最悪の可能性もある原発事故にも静かなのか・・と
注目している事が、衛星放送や現地のニュースからも覗えました。
 
地震当日、横浜の帰宅難民が、
防災物資の毛布を取り合ったという話を聞いたり、
外信として見た被害者を役者のように扱う画像等を見て、
持っていきようのない憤りも、感じます。
 
当面、
食べる事はおろか、
住む場所も失った方々の事を思って、
日々のどうでも良い食べ物の記事を書く事は、
自粛します。
 
その地に止まるしか選択肢のない人達に、
素人目にも危険な状況が拡大している現状において
伝えたい事は1つです。
 
 
私達は
日本に住む同胞です。
 
苦しい状況も
助け合って
どうにか乗り越えましょう。
 
譲れる物は譲り、
分けられる物は分けて
苦しみも悲しみも
笑って乗り越えましょう。
 
 
そんな思いを込めて、
私にできる事を考えながら、
日々、生きていこうと思っています。

The night of the earthquake

 
  観測史上最高と言われる、マグニチュード8.8を記録する地震が起きた。
 
  ちょうど私は、
  少しばかりシビアな話を展開する会議に出席していた。
 
  明確な縦揺れが強めに起きた時、
  「これはデカイ」と思わず声を上げてしまったが、
  その数十秒後から始まった経験したことの無い強く長い、
  ひねりの入った揺れが始まった。
  
  もう、会議どころではない状況。
 
  揺れは引き出しを開け、時計を落とし、
  積んであった荷物を崩し・・・

  しかし、ありがたい事に、
  社内で大きな怪我をする人も無く、
  第一波の揺れは収まっていた。 
 
 
  事務所の窓から外を見れば、
  いつもとあまり変わらない景色。
 
  ただ、消防のサイレンが響き、
  空には不気味な黒煙がたなびいている。
 
  そして、
  報道で明らかになる被害の数々・・・・
 
  これは凄い事になった、という思いを抱いたが、
  横浜も、バスとタクシー以外の交通手段を失っていた。
 
 

 
 
 
  脆弱な物です。
  帰宅は徒歩です。
 
  運良くタクシーが捕まればラッキーだけど、
  もの凄い渋滞だから、料金は想像したくない・・・
 
  でも、足が痛いからタクシーを探すけど、
  こんな日に流しのタクシーなんているワケも無く(^_^;
 
 

  明日の予定はぶっ飛びそうで、
  脱走のスケジュールも12時間押しとなって、
  何だかなぁ・・・・な気分にやられてしまった。
 
  でも、怪我もしてない幸運は、
  やっぱり感謝すべき事だと思う。
 
  そして
  被災された皆様の無事をひたすら祈念しながらも、
  仙台の友人の安否が、気になってしかたがない。
  
 
  もしや・・と思い、
  WEB171を見ても情報は無かった。
  
  情報が無いのは無事な証拠と言うが、
  災害時は、情報が無いのは危険な証拠と言われている。
  
  無事でいて欲しいが、
  今の時点では何の手立ても無い事が、腹立たしい。
  
  祈る事しかできないが
  心から無事を祈っているよ。

ビフテキを食べに、再びジャックスへ


 
あっと言う間に、3月になった。
  
2月は毎年短く感じるけど今年は特にそう感じるのは、
世の中が不景気の嵐で揺れ動いているからかも知れない。
 
 
「そろそろ行かないと、タイムアウトだよ?」
 
「そうだよねぇ・・・」
 
「食べておかないと、間違いなく後悔するよ?」 
 
「昭和の味の記憶・・だよねぇ」
 
「忙しいんだね?」
 
「うん。
 でも私が『行きたい』って言った事だし・・
 3月の頭ならどうにかするから、連れていってください。」
 

そんな会話をしたのは、先月の末。
 
昭和の味を今に残す店が今年度いっぱいで終了するから・・と書いて、
それに反応した友人のコンタクトは私自身にももう一度、
いや、できる限り何回でも味わいたい味なんだと、思い知らされた。
 
そう・・・
ジャックスのビフテキは、
思い出すだけで食べたくなる魅力に溢れているのだ。 
 
 

  
 
「何時まで営業されるんですか?」
 
「今月の27日までですね」
 
「そうですか、寂しいですね」
 
「えぇ
 でも古くからのお客様に多く来ていただいて、
 嬉しい悲鳴を上げてます。」
 
 
週末はもう、予約で埋まっているとジャックは言うが、
まだウィークデイは人数によっては入れるらしい。
 

「今日も・・・アレにしますよね?」
 
「えぇ。ヒレも良いなと思うんですけど、
 やっぱりここに来たらアレを食べたくなるんです。」
 
 

 

 
 
今回は、無理を言って、
厨房の端からジャックを撮らせてもらった。
 
彼の魔術を撮る事はできないが、
84才の最後の勇姿は、今撮らないで何時撮るんだろう。
 
そんな思いでシャッターを押せば、
そこには、経験によって培われる空気を纏ったジャックが
歳を感じさせない姿で立っていた。
 
 

 
 
「どう?
 昭和の味は?」
 
「これは・・・反則だよね。
 肉の美味さを引き出す技が凄い。」
 
「美味い・・・」
 
 
ゲスト達は、
異口同音に美味さを表現する。
 
私は・・・
 
声も出せずに食べてしまう・・・
 
 
「今日は、ありがとうございます。
 寂しくなります」
 
 
厨房に入っている息子さんから
わざわざ挨拶を頂いた。
 
 

 
 
私にとっては、取材で前の店舗に伺ってからの付き合いで、
間門の店に移られてから、息子さんとの面識もできたけど、
それでももう、数えられない位の年月が経っている。
  
 

  
 
「どうしても、お店閉めるしかないのかなぁ」
 
「ここのビルが老朽化で建て替えになって、
 彼自身の年齢もあって、
 良い区切りなんだ・・と言ってる。」
 
「惜しいよねぇ」
 
「寂しいよねぇ」 
 
 
うん・・・
寂しいね。
 
裕次郎が愛したステーキだから通ったワケではなく、
横浜らしいビフテキの味わいが好きだったから通って、
付き合いの中で、色々な事を教えて頂いて、
いつしか食の基準の1つになったジャックス。
 
高級な鉄板焼き系ステーキはもうカテゴリーが違うとも思うけど、
レストランで食べるステーキも、
アメリカンフード店で食べるステーキも、
ファミレスで食べるステーキも、
私の中では「ジャックス以上かジャックス以下か」で
判断してしまうクセがついているのだ。
 
でも・・・
考えてみれば、グリルで焼く系のステーキでは
ジャックスに並ぶと思える店はあっても、
ジャックス以上だった店が思い浮かばなかったりする。
 
 
「ジャック。
 手を撮らせて頂けないでしょうか?」
 
「はい、良いですよ。
 でもどうして?」
 
「以前から気になっていたんですけど、
 大きくて、長年の仕事でできあがった迫力を感じるので、
 是非記録しておきたいのです。」
 
「なんだかね。
 いつの間にかこんな形になっちゃったんですけどね。」
 
 

 
 
ジャックは、昭和33年に「トーク・オブ・ザ・タウン」という店を立ち上げ、
米兵のケンカで作り直す事に追い込まれて、2年後に「ジャックス」を立ち上げた。
 
中華街にあったジャックスは、地上げにより移転を余儀なくされたが、
50年を超えた今日現在、力強く生きている。
 
そしてその長い歴史は、
この手にちゃんと刻まれている・・・と感じたら、
その迫力にシャッターを押す手が震えそうになった。
 
 
 
横浜は、
本物だけが生き延びる街だった。
 
外国人が多くて、言葉も通じにくい街だから、
やって見せて、文化を超える力を見せつけないと、
認めてもらえない空気が漂っていた。
 
そしてその街で、米兵も船員も、銀幕のスターをも虜にしつつ
常に勝負に打ち勝ってきた力は、84才の今でも現役でいられる強さとなって
彼を支えてきたのだろう。
 
 
ジャックスは3月27日の営業を持って、
その長い歴史に幕を引く。
 
その前にもう一度は・・・
行かなくちゃ、と思っている。
 
 

 
 
jack’s restaurant
045-621-4379
横浜市中区本牧間門43-14
17:00~22:30
 
3月7日・14日・22日休業(21日は営業)

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