Home > 日記的雑感

日記的雑感 Archive

管理職の責任?

一応、当初予算を固める事ができた。

 

以前、総務を預かっていた時に比べて、
遙かに緻密で、しかもかなり早期に仕上げた・・と言っていい。 

そんな時、突然若手のDに尋ねられた。

 

「いつも計算してますけど、
 いったい何を計算しているんですか?」

 

なるほど・・・

毎日マイペースで、
ひたすらエクセルと格闘している私の行動は、
言葉と映像の世界に生きている人間から見ると、理解不能だろう。

会社の中を流れる金を1円単位でおっかけて、
1つの仕事にかかるコスト、そして人件費、さらには会社を維持する費用・・・
等を全部計算し、それを新しい年の予算に反映させる。

書いちゃうと簡単だけど、たかが足し算・引き算の表を作るだけなんだけど、
正確に作り上げる事はかなり難しく、その上、作り上げる表は用途に応じて、
理論的に構築し、しかも無駄をそぎ落とした設計をしないと動かなくなる・・・
というネガティブな部分もあるわけで、
その作業は数学的頭脳と過去の経験を書き込んでおく記憶力が問われるのだ。

まぁ・・・
分析の為のツールとして、小遣い帳を丁寧につけてるもの(^_^;)

でも、その簡単な事ができないヤツが多すぎて、
結局私がその作業をしているワケだ。

 

どこかで、10億着服した・・という事件があったが、
そんな話題を耳にすると、そりゃそうだろ・・・と思い当たる事がある。

経理は、お金を動かし、その流れを記録する仕事を担っているが、
全てその証拠として伝票を発行し、上席に承認印をもらう、という
責任所在を明らかにする作業が伴うものだ。

だが、肩書きだけついている総務・経理の実務に疎い上席から見ると、
伝票なんて、ただ数字だけ書いてある意味不明な物。

だから、実務をやっている人間に「やっといて・・・」と命令し、
内容を確認せずに印だけ押してしまう・・・・。

で・・・
実に簡単に着服できてしまったのだろう。

 

管理をする人間が、回ってくる伝票だけ見て、
ちゃんとその意味を把握せずに印だけ押してくれるのなら、
実際の口座に幾ら入ってるかも確認しないのは当たり前で、
ちょっと頭が回るヤツがちゃんと辻褄を合わせて動いていればまずバレないのだ。

つまり、管理職という肩書きにふんぞり返ってる奴らが、
いいように手玉に取られだけの事で、どんな企業でも起きかねない問題なのだが、
それよりも問題なのは、たった1人の大胆な犯行の結果、全職員の給与と
退職金を減額する・・・という間抜けな対応だ。

管理監督の地位に居た人間が取るべき責任を、真面目に仕事をしている職員まで
含めた全職員にも取らせるって・・・・(/–)/

組織ぐるみにも見える問題から起きた損失ではないのだから、
責任取るべき人間がちゃんと責任取りなさいよ・・と言いたい。

 

会社の中で高い地位にある人間は、
一般職員より要求される仕事量も責任の度合も大きく、
だからこそ報酬も高くなっている。

そんな人間が、無責任極まりないずさんな管理をしているだけでも問題で、
極端な言い方をすれば、責任を持たなくてはいけない期間の全報酬の返還と
懲戒解雇は当然・・・と言われても仕方ないのだ。

 

「まぁ・・・
 会社の収支を予測したり、これからの経営の方向を見定める為にも、
 全ての金の動きを把握しなくちゃいけないんだよ」

「はぁ・・・
 そうなんですか。」

「それをやってないと、
 給料払えなくなっちゃいました・・・みたいな事態も
 起きちゃう可能性があるんだよ」

 

 

若手Dは、なんとなくわかったような顔をしてくれたが、
実際のところは、理解にはほど遠いだろう。

だが、そんな理解は必要ない。
それよりも、人間1人がその金の流れを把握するためだけに、
毎日ガリガリと仕事をしているんだ・・と気付いてもらう事の方が大きい。

しかし・・・
何処の会社も、ちゃんと管理のできない管理職が居るって事・・・かなぁ(^_^;)

admonition

生き方として、色々なチョイスはある。

形を綺麗にまとめて、それなりの迫力でハッタリをかますやり方もあれば、
見えない所で苦労をしても表面ではグータラなイメージで押すやり方もある。

 

どっちも間違いじゃない。
と言うか、生き方に正しいも間違いも無いワケで・・・

で、自分としては、後者の方がカッコイイと思うし、
そうやって生きる事にこだわろうと頑張ってはいるが、
どうも世の中は前者の方が大事にされる事が多いようにも思う。

 

集団でイニシャチブを取る事だけを目的に、
筋が通ろうと通るまいと、威しにも近い行動を盾に
ワガママという剣で切り進む。

肩書きを上げる事だけに全勢力を費やし、
上がった肩書きに物を言わせて面倒な事は全部部下に投げてしまう。

ふっと考えても、そんなヤツが多いように思うのだが、
じゃぁ、実際に本当にダメなのか?と考えてみると、
殆ど同じ条件で同じ仕事をさせてみるような試験にも似た実験をしないと、
明確にはダメさが見えない・・という現実はあってそれを行う事は不可能に近いから、
結局ハッタリの上手いヤツが大きな顔をしている確立が高くなるのだろう。

 

だが、それは所詮メッキだ。

どんなに輝いていようとも、
一度曇ったら、磨くと地肌が見えてしまう紛い物だ。

綺麗なメッキを幾重にも重ねる・・というやり方は無いわけじゃないが、
何度もメッキを重ねようと努力し続ければ、メッキが要らない存在になっているはずだ。

だったら、最初っから地金を磨いて輝く方が、良い。

傷が付いても、多少欠けても、
地金の本質は変わらないのだ。

そしてそんなヤツは、
見る目のある人間には大事にされるものだ。

 

どんなに綺麗に輝いていても、
ちょっと話せば、本質は見えてくる。

他人の話を聞けない人間や、他人の考えを全部否定する人間は、
自らのメッキを曇らせないために虚勢を張っているだけ・・と私は見る。

そしてそんなメッキ野郎を見破る事が上手いのは女性達で、
組織の中でダメな人間は、間違いなく女性達から嫌われるものだ。

だから私は、組織の中の本物を探す時、
女性達にアドバイスを受けるようにしている。

煮干しのみそ汁

何故か母親は、料理が恐ろしく下手だった。
 
ご飯は蒸して食べる物、と思っていたし、
煮魚は崩れる直前まで煮込む物であったし、
焼き魚はどっちかと言うと炭に近いほど焼く物であり、
ちゃんこ鍋と称して何時でもあり合わせの野菜等を入れた煮物?
のような料理を好み・・・と言うか、料理の殆どは煮すぎた何か、
である事が多かった。
 
よくわからない鍋物、キャベツロール、おでん、煮魚、
ボルシチという名のトマト入り鍋物、たまにカレー・・・
と、思い出すと煮込む物ばかり。
 
で、随分経ってから母親に何故だ?と尋ねたところ、
火を使うのが恐かった(苦手だった?)と答えた。
 
要するに、何かを焼くと焦がしてしまうから、
失敗の無い煮物に徹していたのだろう・・と今になって思う。
 
ただ、その様々な煮料理が美味しければ
問題は大きくなかったと思う。
 
と言うのは、とにかく調味料を「もったいない」という一言で
ほとんど使わない料理だったため、
基本的に味が無い・・か、ただ単に塩辛いだけ?・・・に近い味付けだったのだ。
 
  
 
「お母さん・・・もうちょっと醤油入れようよ?」
 
「もったいない」
 
「お砂糖入れようよ?」
 
「歯が溶けるからダメ。」
 
「みりんあったよね?」
 
「もったいないから、ダメ」
 
  
 
小学校3年になった頃、あまりに不味いため自分で作ろうと試みたが、
何故か母親は料理をする事は好きらしく、シェフの座を譲ってはくれなかった。
 
  
 
「アンタは後片づけをすればいいのよ。
 食べたら早くお茶碗洗って!」
 
「僕だって、料理ぐらいできるよ。
 学校でも教えてもらったし・・・」
 
「教科書通りに作ったら、無駄だらけよ」
 
  
 
学校の教科書も、新聞の料理欄の記事の切り抜きも、
こういうのをたまには作ろうと提案するために用意して提供するが、
調味料の量は良くて半分、酷いと使わないスタイルは崩さないし、
かつお節でダシを取る・・という行為も「無駄が多い」と聞き入れられず、
結局、ひたすら素材の味しかしない老人食か病院食のような料理が続いた。
 
  
 
「あなたは、どうして魚嫌いなの?」
 
「不味い魚料理ばかり食べて育ったからだよ」
 
「それは、美味しい料理を食べてないからよ」
 
「そんな事は無いよ。
 ちゃんとした所の煮魚も焼き魚も美味しいと思うけど、
 自分の中で、美味しくない物ってすり込みができちゃってるんだよ」
 
「そんな事無い」
 
「あるんだよ。」
 
  
 
当時(今も?)高級食材の扱いを受けていた刺身や肉類は、
当然の如く食卓には上らない。
 
外食なんて年に一回あれば良いような物だし、
出前を取るなんて事も客が来て、どうしようもない時だけの事で、
町の蕎麦屋で食事をする事も、寿司屋の出前を取る事も、見果てぬ夢・・・
という感じがあったのは、どうやら私だけの感覚ではない。
 
高度成長期に突入した昭和30〜40年代は、
外食も会社の金でする(社用族と称された)一部の人達を除いて、
贅沢以外の何物でもない時代だったと言っていいだろう。
 
  
 
「美味しいと思うのになぁ・・・煮魚」
 
「どうぞ、召し上がれ。
 煮魚の味はまだ良いだけど、それより嫌いなのは食感なんだよ。
 あの、モロっとした歯応えと、食べにくさと・・・」
 
「ほんと、魚食べるの下手よねぇ・・・」
 
「良いジャン、美味しいと思える部分を食べるだけで。
 煮魚よりは焼き魚の方がまだ良いけど、
 食材を煮込んだ匂いも好きじゃないから・・・」
 
「はいはい。
 美味しいのになぁ・・・」
 
  
 
そして生まれて50年が過ぎた今も、私の「煮物嫌い」は治っていない(^_^;)
 
その当時、食べる事のできなかった物が、好物の殆どを占め、
メタボだ・・・と言われても、肉食なスタイルは崩せない。
 
  
 
「なんかさ・・・
 ここのみそ汁って、懐かしくも美味しいんだけど、
 なんかダシとかに秘密があるの?」
 
「え? あぁ・・・
 ウチのみそ汁は、煮干しでダシを取っているんですよ。
 それが、懐かしい感じ?になるんだと思います。」
 
  
 
ふらっと、友人と入った料理屋で飲んだみそ汁が妙に美味しくて、
スタッフに尋ねたところ、そんな答えが返ってきた。
 
え? 煮干し??
 
と思えば、昔も今も母親が作るみそ汁は、安い煮干しでダシを取って作る物で、
もったいないから(面倒だから?)煮干しはそのままも、ちょっと魚臭い物なのだ。
 
食べ物の感じ方は、育った時の記憶によって左右させられる。
 
美味しい物を知らなかったから、何でも美味しく頂けるようになったが、
子供の頃、毎日食べていた味だけは、「美味しくない物」として刷り込まれ、
今の食生活に大きく影響を与えている・・・・・のに、
どうしてみそ汁だけは、煮干しのダシでも美味しいって思うのだろう。
 
そんな事を思わされるほど、育ててくれた人の影響は、大きいのだろうか。
 
  
 
「あなたは、煮干しも嫌いなんじゃないの?」
 
「え?」
 
「ラーメンとかで煮干し使ってると、不味いって怒るじゃん」
 
「あ・・・・そうだねぇ。
 何故だろうねぇ・・・」
 
「煮干しダシのみそ汁だけは美味しいって記憶があるからじゃない?」
 
「そんな事はない・・・はず。
 たっぷりお椀に残る煮干しを食べるのが嫌でさぁ・・・」
 
「煮干しを食べる事が嫌いであって、味だけは美味しい物って
 記憶されたんだと思いますよ?煮干しも煮魚だし(爆)」
  
 
  
 
たった1人で育ててくれた母親には、感謝している。
 
例え偏った嗜好が育ったとしても、
例え煮物全般が苦手になったとしても、
例え魚嫌いになったとしても、
私は幸せに50年間を生き抜いてこられた・・・
と信じている。

信頼関係

 理想に燃えた管理職がいる。

 ただ、自分で全てを背負い込むクセがあって、
 本人は過重な労働に追い込まれている。

 で、そんな姿を見ていて思うのは、
 責任を持つ事について、頑張りすぎている・・という事。

 管理職には、確かに多くの責任があり、
 そのためにやらなくてはいけない管理業務もかなり多い。

 自分も管理職の端くれになった時、
 抱えきれない管理業務に半分切れた事があったが、
 その時先輩にはこう言われた。

 

 「1人でやりきれない仕事は、分担して行いなさい。
  自分しかできない仕事を見極める事と、
  部下を信頼する気持ちを持ちなさい。」

 

 今でこそ、この言葉はよくわかる。

 自分1人の力なんてたかが知れていて、
 信頼できる部下がいてはじめてパフォーマンスが上がる・・という事は、
 様々なチームを率いて学んだ事であり、実際に効果が出る事は実証済みだ。

 で、そんな経験を伝えて助言しよう・・とも思うのだが、
 これは自分で、自分のやり方を確立しないと理解できない事。
 
 だから今しばらくは、やりたいようにやってもらって、
 そのフォローに入った方が良い・・と思っている。

 

 よく管理職になった友人がこぼすのは、
 「同年代や年上の部下が言う事を聞いてくれない」だが、
 それには、一にも二にも、コミュニケーションの上に成り立つ信頼関係を
 早く確実に築く事しか、解消法は無い。

 職位に物を言わせて人を使っても、
 そこに悪感情が存在していれば効率は悪く、精度は落ちて、
 いつかは責任者として、責任を取らされる事態に追い込まれるのだ。

 若き管理職達を見て思うのは、
 とにかく下についてしまった仲間を、自ら信頼しろ・・という事。

 そうすればやがて、ちゃんとした信頼関係が構築され、
 部下も自分も気持ち良く効率良く仕事ができる環境になるだろう。
 (企業論理で酷い状態を強いる事はいくらでもあるだろうけど)

 

 人は感情の動物なのに、戦後の教育は平等のみを教えた結果、
 格差を受け入れて消化する能力が、今の若者達には欠けている。

 だからこそ、格差を埋められるものは、
 感情のコントロールになる、ワケだ。

 人と人との信頼関係は
 築くのには時間がかかって、崩すのは一瞬だったりする。

 自分自身も、そこら辺を肝に銘じて生きているつもりだが、
 なかなか難しくて、つい一匹狼的生き方にシフトしてしまう。

 50になっても私自身がこうだから、
 若き管理職達にとっては、かなり難しい注文なのかもしれないけどね(/–)/

看板

携帯のアラームが鳴る。

眠・・・・( ^.^)( -.-)( _ _)

そりゃそうだ・・・
まだ4時45分。

 
最近は、この時間に起きるのが辛くなった。
前は外仕事となると、当たり前に起きられた時刻なのだが、
人間は楽な方にはすぐ順応する動物らしい。

・・と、どうでも良い事を考えている暇は無い。

シャワーを浴びて、身支度をして、
機材を抱えて出かけなくてはいけないのだ。

 
今日はスチールロケがあって、
目的地は混雑が予想されているから、
ディレクション担当者と相談して早くでる事にしたのだ。

ロケ場所は3つ。

午前中は報道登録をして、
式典やイベントの取材もしなくてはならない。

1人で動くための装備にレンズを3本突っ込み、
一脚とデジカメ一台という身軽な態勢を取る。

最初の現場は報道関係では一番乗りとなり、
必要な風景をマイペースで切り取る事ができた。

 
「おはようございます。」

「おはようございます。」

「あれ? なんでここに?」

「うん、久々にスチールの仕事ね」

「おつかれ様です」

 

知り合いの記者に声をかけられ、
眠気が飛んだ頃には、すっかり現場の感覚が戻っていた。

 

いつも面白いな・・・と思うのは、
一度身に付いた物は、消えない・・という事。

勿論、経験を生かすだけの準備(例えば体調管理や技術保存)は必要だが、
撮影もディレクションも、自分の生き方の中に刷り込まれてしまっていて、
こういう時には、瞬間的に必要な感覚が蘇るのだ。

無意識にポジションを確保する事も、状況の予測も、
当たり前に自然に行える・・・

それはきっと、看板で仕事したくない・・という思いが、
良い方向に作用するだろう。

 

報道機関に居ると、
看板を盾にすれば何でも通る・・・と傲慢になりやすい。

他社からの扱いもその看板に見合った厚遇で、
現場担当は、あたかも自分が厚遇されているように勘違いをしやすいのだ。

クリエイティブな世界に生きるからには、
看板は自分の名前だけで通るように頑張るべき・・と思うのだが、
会社の看板も使わないとマスコミの世界は生き抜けないから、
その距離感を保つ事が大切だと思う。

そうしないでいると、
現場を離れた瞬間に「ただの人」に成り下がってしまうワケで・・・(^_^;)

 

1日歩き回って、
今日も順調に8ギガ近く、撮影した。
(このデータ落としがまた時間がかかる)

指名で使って頂ける事は、ありがたい事。
体力も神経も消耗するけど、文句なんてありません。

これからも指名を頂けるよう
もっともっと自分の看板を磨かないと、いけませんね(^_^)

ホーム > 日記的雑感

検索
フィード
メタ情報

Return to page top