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看板を磨け

今日は銀座で
坂東玉三郎初春特別公演を観ていた。
 
立女形として還暦を過ぎても尚追従を許さない芸の凄さは
日々の精進と研鑽に加え、常に進化しようとする意識とその実行が
支えているのは説明するまでもない事だろう。
 
歌舞伎の世界は名跡という看板があって
その名に負けない努力をする事で成立してきたが、
彼の名を継げる人も芸を超える人も居ないのでは・・・と
今日の公演を見ても思わされ、
本物の凄みを味わいながら自分を顧みる一時を楽しんだ。
 
で、公演の後に訪れたのは、浅草。
 
そう・・・
久々に老舗の味を楽しみたくなったのだ。
 
 

 
 
老舗と呼ばれる店は
長い歴史を誇れるだけの力を持っている。
 
この「駒形どぜう」は
創業1801年だ。
 
元々は「どじやう」と書くどじょうだが
縁起が悪いとの事で「どぜう」とあてたのが1803年。
 
以来、200年以上の歴史を誇ってきたわけだが、
その味わいは、確かに他の店では味わえない独特のモノがある。
 
 
どじょう鍋にはささがき牛蒡を乗せ
さらに長葱をのせて煮ながらいただく。
 
泥臭さは全くなく、臭みも無く、
でも、どじょうならではの旨味はあって、
いくらでも食べられてしまうような魅力に溢れていた。
 
 

 
 
そのワザを真似ても本物には敵わない・・という事は、
客の立場になってみればよくわかる。
 
その場しのぎのフェイクは表面だけを真似ているから、
奥行きも無ければ応用も利かず、
ちょっとしたワガママを客が通そうとした時、
見事に底が割れてしまうのだ。
 
だからこそ、一度看板を上げたら、
本物だと誰にでも言わせるために
精進が必要となるのだろう。
 
 
どじょう鍋を酒2合でやっつけて店を出たら
もう一つの目当てに顔を出す。
 
東京で一番辛い汁を出すとさえ言われる
「並木藪そば」だ。
  
ここの蕎麦を1枚手繰って帰ると決めていたから、
「駒形どぜう」ではご飯物を頼まずにいたのだ。
 
 

 
 
あら・・・
随分小綺麗になってるねぇ
 
店内は以前訪れた時と間取りは一緒だったが
机も壁も白木で作り直したようで、木の香りも楽しい設えになっている。
(去年2月に営業をやめ店舗を建て直し、11月1日に営業再開)
 
そして晩飯時だからか殆ど満席の状態ではあったが、
基本的に相席で・・・というスタンスだから
どうにか席を確保する事ができた。
 
 
「すいません、ざるを一枚」
 
 

 
 
そうそう
この逆反りのザルが、ここの特徴の1つだよね。
 
久しぶり・・と
まずは汁をつけずに啜ってみる。
 
 
あ・・・れ・・・・?
 
なんか、水が匂うよ???
 
  
汁を蕎麦猪口に少しだけ入れて
蕎麦にちょっとしか着かないようにして、啜る。
 
 
あ〜〜
ダメかも。
 
カルキの匂いが
蕎麦の匂いを消している。
 
ネギをちょっと落としても
山葵でパンチを効かせても
水の匂いが気になってしまう。
 
辛い汁をちょっとだけ浸して啜るから
余計に香りが立つのかも。
 
 
「すいません、蕎麦湯下さい」
 
 
大きめの急須で蕎麦湯が出てくるが・・・
 
 
 
 
ダメだ
蕎麦湯は一口も飲めないほど、
水が不味い。
 
 
  
これは、ショックだった。
 
江戸前蕎麦の原点とさえ称され、
大正2年創業でほぼ100年の歴史があるのに
今日の蕎麦はその歴史を感じる事ができなかった。
 
 
確かに蕎麦は
良かったのかも知れない。
 
でも蕎麦は吸い取り紙のような物で
茹でた水も汁もどんどん吸い込む物なのだ。
 
だから、水がダメだったら、どうしようもない。
 
 
店は客で満員で、繁盛は相変わらず続いているのかもしれないけど
蕎麦湯が臭くて飲めないほどの水を使ってる事に気づけないなら、
申し訳ないけど、看板の上に胡座をかいてるとしか思えない。
 
で・・・
はたと思いつく。
 
看板を磨く事もせず、仕事を進化もさせず、
質が落ちている仕事に気付きもしない処が彼方此方にある事に。
 
 
仕事は、本物になるのに時間がかかり、
本物となってもさらに、
常に変わっていく世の中に生き残れるよう
研いで磨いて進化していく必要がある。
 
だからこそ、
名声を集め、生き残っている老舗の看板というものには
重みが伴い輝きも大きく、ブランドとしての価値もあるのだ。
 
だが、同時にこうやって、
大切な看板に支えられている事に気づけず
ふざけんなって仕事をする老舗も出てくると、
代替わりか経営者が変わったか・・と思わされる。
 
横浜中華街では、
同じ名前で同じ料理を出しているけど
経営者が変わっていて味も落ちている・・という店が
実は結構存在していたりする。
 
この並木藪も、ひょっとしたら代替わりをしたのかもしれないけど、
大好きな蕎麦屋だっただけに、残念でしかたない。
 
残念だからこそ、敢えてこの記事を書く気になったのだが、
できる事なら気がついて、冷静に客観的にその蕎麦を食べてみて欲しい。
そして、修正できるところは修正して欲しいと、心から思う。
 
 
3回も手繰れば無くなる量の蕎麦を750円で売るのなら
さすがだ・・と思わせる味わいが無ければ、確実に廃れる事になる。
 
給料が天から降ってくると思い込んでるほど間抜けでは無いと思うけど、
看板に助けられているうちに体制を立て直さないと、
その歴史も終焉を迎える事になると思ってしまう。
 
 

 
 
さて
人の振り見て我が振り直せ
だ。
 
看板に寄りかかったり
こんなもんだろ・・・と手抜きをしていたり
そもそも仕事に対して真摯でない・・・
という愚行をしていないか?
 
自分の生き方を
今一度、見直してみようかね。
  
 

コメント:5

PORFIDIO 12-01-23 (月) 22:56

どぜう暖簾の光と藍色、すごくイイ感じです!(^^)v

bowjack 12-01-24 (火) 12:34

kissX2でも、
結構撮れるものです(^_^)

ふりまん 12-01-26 (木) 19:02

そうだね 自分の評価とは常に第三者によって決まるもの
 
最近は安易にステマのように評価があるかのように見せかける輩が多いようですが、
本物とは自分が輝かなくても浴びる光に寄って輝くものだと思います
 
そして・・ 他人の振り見て我が振りなおすという己に対しての
プレッシャーが磨きをかけてくれるものだと思います

オサム 12-01-27 (金) 14:21

これは何処かのMCメンバーに最も当てはまる発見だったかもしれません。
キチンとした仕事をしている人間は、クラブライフに年功序列(ただ年齢が上というだけで上から目線)を
持ち込むなどという無礼は許せない筈です。
そういうのは、自ずと走りに垣間見えるからモーターサイクルは油断なりません。

bowjack 12-01-27 (金) 15:18

飾る事も、嘘をつく事も、
見抜く力が弱くなった人達には有効です。
 
でも、ほらを吹いたら、
実行で証明させられる社会では
結局助けは自分の力。
 
そんな厳しい社会が減って、
利己的な世界にシフトしている現状では
本物の輝きに気づけない人も多いのでしょう。
 
でも、本物で無ければ生き残れないのは
歴史を紐解けばわかる事。
 
そして何より、
本物でいたいと思う事こそが
自分を大事にする手段でもある・・・と
私自身は思っています。
 
自分にしかわからない拘りや意地は
生き方の1つとして注目を集める事も無い。
 
だけど、自分のスジを守らないで
どうやって社会のスジを守れるのだろう・・・
と思うのですが。
 
 

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