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日記的雑感 Archive
思うこと
- 2016-02-29 (月)
- 日記的雑感
最近
思うこと
刹那的に生きて
過去のことを覚えていない人が多すぎること
今あることは過去に誰かが用意して
今はそれを意識しないで使えている
そのことに気付ける人は
過去に感謝して
未来に夢を見ながら今を生きるだろう
そのことに気付けない人は
今足りない事ばかり探しては
ひとつひとつに文句をつけて生きてしまうのだろう
人は誰でも歳を取り
衰えるものと積み上がったものとのバランスで
存在感を強めていくものだ
だから
経験豊富な人ほど柔らかくなる必要を感じていて
自然に穏やかな動きを見せる意味を知るのだろう
いつからだろう
怒りが強くなると
笑うようになったのは
いつからだろう
不安が大きいと
ワクワクするようになったのは
極端な動きは
必ず反動が起きる
それも
意識しない別角度から返ってくる
長い期間を俯瞰してみれば
調和された流れがあることは
経験的にわかっている
敵は常に
己の中と知るべきか
怒りと共に笑顔が出るのは
愚かさが見えてしまうからか
そんなことを感じる日々が
ここのところずっと
続いている
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疑心暗鬼
- 2016-02-15 (月)
- 日記的雑感
最近、世の中がギスギスしてる。
ウェブに流れる文言にはトゲがあり、
煽るようなスローガンだけが表面的に走り回る。
読解力と時間が無い人は、
そんな表面的なセンテンスで物事を判断し、
煽られた感情に踊ってさらに過激な言葉を発してしまう。
元々
へ〜って思うような事を聞くと、
本当なんだろうか?と裏を取るクセがついている自分でも、
さらっと見ただけでは騙されるほどの誘導なので、
そういうクセがついてない人はまず勘違いするだろう。
「和を以て貴しとなす」という精神は何処へやら。
そしてそんな情報に嫌気がさせば、
徐々に、ウェブに流れる情報を見る事も少なくなっていく。
そんな事を日々感じてしまうから、
ホームページへの記事記載も躊躇するようになった。
しかし
マスコミの情けなさは、目を覆うほどだ。
SNSで流れる情報より
力があると過信しているのだろうか?
それとも、自分達の情報で世の中を動かせると
勘違いしているのだろうか?
情報には力があるけど、
その力の強さは、発信者の能力(知識・見識・洞察力・判断力・表現力・技術)に支えられていて、
発信者の能力が落ちれば、どんなに広く発信できても「力」たり得ない。
そして、チームとしての能力が落ちていることに目を向けないまま、
従来型のビジネスモデルに則って動く経営方法に後押しされて、
もはやマスコミの信頼感は、地に落ちているという事に気づくべきだ。
ただそれは、別に悪い事では無い。
マスコミは各社がそれぞれのカラーを持っているべきだと私自身は思うし、
それぞれのカラーがわかりやすく偏向された形発信されるなら、
両極端のカラーを見比べる事で、本来の方向が見えてくるからだ。
現在の状況は、
マスコミが押し並べて同じ切り口である事が、ダメだと思っている。
硬軟取り混ぜ、右も左もちゃんとあって、
上品も下品も散らばっていてこそ、人間社会だと思うのだけど。
そしてそれこそ
和を以て動けば皆が笑える社会になるって、信じたい。
疑心暗鬼が起きないよう、
情報発信者には、受け手の気持ちを想像して
思いやりある表現をお願いしたいと、思っている。
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平成ええじゃないか
- 2015-09-20 (日)
- 日記的雑感
シルバーウィークに入った横浜でも、
デモが行われていた。
例の妙な節回しでスローガンを歌うヤツだ。
「選挙に行こう!
安保法案撤回だ!
賛成議員は選挙で落とそう!
集団的自衛権要らない!」
打楽器とマイクで音頭取りが節を回し、
続く人達がオウム返しに歌いながら練り歩く。
あ!
あ〜〜??
これって「ええじゃないか」だね??
それは、慶応3年に三河で始まったとされる
「ええじゃないか」とはやしながら踊った集団乱舞。
当時の世相に不満を感じていた民衆が、
世直し要求を伊勢神宮のお札が舞ったと称して
宗教的熱狂の形でムーブメントとなったと言われている。
この頃の日本は、
尊王攘夷の風が吹き、農民一揆や貧民による打ち壊しが起きていた時代。
貧富の差が大きくなり、支配階級の腐敗に不満が大きくなっていた時代だ。
倒幕派はこの動きを利用し大政奉還に漕ぎ着けたという説もあるが、
当時の政権を倒すシカケの一つであったと考えるのが自然のように思われる。
その「ええじゃないか」の歌詞は色々ある。
「今年は世直り、ええじゃないか。」
「日本国の世直りはええじゃないか。豊年踊りはおめでたい。」
「御かげでええじゃないか、何でもええじゃないか、
おまこに紙貼れへげたらまた貼れ、ええじゃないか」
と節つけて歌い踊る民衆は、
そのリズムに乗って、不満を解消する踊りを楽しんだのだと思う。
で、
今流行のラップ型デモ。
「嘘も3年つきと通せば本物になる」と花柳界のお姉さんが言ってたけど、
言われる意味を理解せずとも聞かされていれば、やがてそれが正しいと思い込む
民衆の意識を美味く煽るやり方に見えてしまうのだ。
「9条守れ!」
と叫ぶのを聞けば、
「日米安全保障条約を死守し集団的自衛権によって国を守る」
という意味に聞こえる。
「集団的自衛権は要らない!」
と叫ぶのを聞けば、
「個別的自衛権の行使のみで国を守るために、
軍拡し必要に応じて兵役の義務を設置する」
と聞こえてしまう。
でも、深く考えずに煽られた不安感と一緒に歌う高揚感に支えられ、
群衆意識が馬鹿を呼び集めて集団を大きくすれば、
それが民意だと勘違いする人もまた増えてくるのだろう。
情報は、ちゃんと自分で選んで多方向から集めないと、
客観視する事は難しい。
集めたらちゃんと分析し、過去の動きも検証しながら、
自分なりの判断をしないと、方向性を見失う。
スマホに落ちてくる誘導される情報だけを頼りに生きている人は、
容易に誘導されて、感情に振りまわされているだけの事だ。
ええじゃないか・・と皆で叫べば、
何でも通ると思うのは、あまりに子どもっぽい。
議会制民主主義の日本において、選挙の結果により政権与党となった政党に、
少数意見を無視するのか?と主張する事は、日本の民主主義を否定する行為だと
ちゃんと理解するべきだ。
だから、うるさいデモの中でも
「選挙に行こう」や「賛成議員を選挙で落とそう」は
まったくもって正論だと思うし、実際そうすれば?って思える事だ。
投票率が低いから今の与党の指示が低いと言い切る政党もあるけど、
それは単なる論理のすり替えでしかない。
投票しないのも個人の自由だし、少ない投票数の中でも与党となれるだけの票を
集める事ができなかった事実は変わらないからだ。
今回の騒ぎは、与党の乱暴な振る舞いにも問題があるし、
時間をかけて議論しようとする動きに対して、
対案を出しより良い方向性を探れなかった野党にも問題がある。
だが、
若者達が選挙の意味を考えるキッカケとなり、
大人達が政治によって国が方向性を変えてしまう事を考えるキッカケになるなら、
言い掛かりでしかない強行採決が行われた意味は、大いにあったとも言える。
だから今、
ちゃんと考えて欲しい。
「平成ええじゃないか」のムーブメントに隠れる様々な問題にこそ
目を向け見極める必要があると、多くの人が気づいて欲しいと、心から思う。
そして、議論を尽くす場である国会において、
ルール無視の振る舞いや暴力に訴える行動は、
確実に次の選挙で排除するように動く事が大事だと、
思っている。
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戦後70年
- 2015-08-15 (土)
- 日記的雑感
気がついたら、
毎年この時期には「戦争について考える旅」をしている。
広島詣から長崎、そして去年は知覧へ・・と、
行く先も色々になってきた。
「あまりにも大きな犠牲の上に、今がある」という事を
感謝しながらも、知識も深める、という勝手な考えなのだが、
頂いた命を大事にしないといけないねって、毎回思わされてきているのも、事実だ。
その日も、暑かったのだろうか。
片道切符の飛行機に乗って沖縄を目指したパイロットは、
同じこの海を見て、何を思っていたのだろうか。
私は鹿屋に向かうために
錦江湾で船上にいた。
去年行った知覧は陸軍の特攻基地。
だから今年は海軍の特攻基地であった鹿屋基地へ行く事にしていた。
鹿児島中央からの鹿屋直行バスに乗ると、
バスはフェリーに乗って桜島の脇を横切って大隅半島に向かう。
知覧とは錦江湾を挟んで反対側に位置する鹿屋基地は、
特攻基地として有名な知覧よりも規模が大きく、
現在も海上自衛隊の基地として使用されている。
規模が大きければ特攻に出撃した人数も違うのか?
と調べてみれば、
知覧基地からは402人出撃したと記録にあり、鹿屋基地からは828名が出撃とあった。
倍以上の出撃?
ちょっと驚いて調べていけば、
そこにはミサイルのような「桜花」という特攻専用ロケット機の出撃基地
でもあった事がわかってくる。
それなのに、
特攻基地としてはあまり有名で無いのは、何故だろう?
それも気になっていた。
出迎えてくれたのは
二式大艇だった。
資料等で見た事はあったけど、
まさかここで出会うとは・・・
説明文を読めば、現存する唯一の機体とある。
その大きさに驚き、
そして想像以上に幅が狭い事にも驚きながら
資料館に入った。
見学経路は、日本の海軍の歴史を辿るコースとなっていて、
大東亜戦争についても、端緒から終戦に至るまでちゃんと展示されていた。
その中で驚いたのは、
日本が戦争に突入せざるを得なかった客観的事実を
ちゃんと示している事だった。
大東亜戦争が始まる4ヶ月前、
日本は、アメリカ・イギリス・オランダなどにより
石油やゴムなどの資源の輸入を止められ、経済封鎖を受けていた。
対して日本は、
日米交渉の中で資源輸入凍結と経済封鎖を解除すれば
南方への進出を止めると譲歩する交渉を続けていた。
そんな中、コーデル・ハル米国国務長官は
1941年11月26日アメリカ提案(通称ハル・ノート)を突きつける。
そこにあったのは
1日本軍の、中国およびインド(フランス領)からの無条件撤退
2中国における蒋介石政権以外の政府・政権の否定(満州国の否定)
3日独伊三国同盟の一方的解消
という内容だった。
簡単に言えば、
明治維新前の日本に戻って西洋諸国の言う通りに生きろ、
という事になるこの提案を、
既に資源凍結され生活困窮状態に陥っていた日本は、
最後通牒として受け取ったと、言われている。
で・・
このハル・ノートの存在については、
学校教育の中では教えられていなかったと、記憶している。
ただ私の場合は、戦前生まれの母親や祖母から、
当時の状況や考え方を多く聞かされていて、
学校で教えない昭和の歴史については、自ら色々調べて知っていたのだけど。
そんなハルノートの存在を、展示の中ではっきり謳っているのを見て、
ここが自衛隊の基地内にある資料館である事を考えてしまう。
国防を担う人達には
何故、戦争が起き、何故自衛隊が存続しているかを知るために、
ちゃんとした昭和史の教育もされている、という証明にも見えたからだ。
ただ、自衛隊の現在も使用されている基地内にある資料館、という事。
そして交通の便の悪さ。
海軍から引き継ぐスマートな在り方を大事にする、海上自衛隊のスタンス。
そんな事が複合的に絡んで、特攻基地としての存在感を
強く前面に打ち出す動きは避けられたのであろう・・と想像もできた。
つまりそれが、
この資料館があまり有名ではない理由なのだろう、と。
海軍魂の顕れにも似た存在感を感じ、国防に対する考え方を垣間見て、
感慨にも似た感情を持ちながらも、展示を見て回ると
今回撮影が許されていた零戦(A6M5)に出会う事ができた。
去年知覧で見た隼(キ43)や飛燕(キ61)とはちょっと違う佇まいでいる零戦は、
平成4年に海から引き揚げられた2機を使って再生されたもの。
本物の持つ凄みは同じとしても、海軍らしくスマートに見えた。
その勇姿を見た後に待っていたのは、神風特別攻撃隊の記録。
出撃されたパイロットの勇姿だけではなく、どのように扱われたかを
例えば当時の新聞等も交えた展示で、淡々と説明されていた。
出撃された人達の肖像写真は、何故かとても格好良く見える。
知覧のそれは、リアルに人物が伝わる親しみ深い表情を浮かべる人が多かったのに、
鹿屋の並ぶ表情は、誰もが涼しげな表情を浮かべているのだ。
ただ、彼等の手紙を読めばやはり、当時の日本の状況が見えてくる。
愛する人達を守るという思いを表現しながらも、どこかに無念な気持ちが
その文面や筆跡に顕れていた。
ありがとうございます。
おかげさまで日本は戦後70年の間、
大きな戦いに巻き込まれる事もなく平和な暮らしを実現できています。
そして2度とこのような事態にならないよう
主権者の1人として生きていたいと思っています。
そう心の中で、出撃者の遺影に語りかけ、
展示を見て回ると、頭をぶん殴られた気分にさせられた。
そこには、出撃者の名簿が一面に印刷された当時の新聞があったからだ。
こんなにも多くの人が
国を守るために命を散らしたのか・・という思い。
そして、その名簿を新聞一面に示す新聞社の道義的責任を、
生き延びた新聞各社は、どう考えているのか?
と考え込んでしまった。
戦争は、2度と起こしてはならない。
人と人が殺し合うような事態は、
避けなくてはならない。
今、あまりにも短絡的な感情的闘争が起きているが、
大事な事はなんだろう?
戦争にならないように、
あらゆる手を打つ事ではないだろうか?
侵略的行為が起きた場合の備えについて
その方法論を交わすよりも、
侵略的行為を受けないようにはどうずべきか?
という事が、真っ先にしなくてはいけない事なのだと思う。
国権の発動たる戦争を、日本は憲法により禁止している。
しかしそれは、自衛のための戦いを排除している事ではなく、
自衛のための軍事力を持つ事を排除していない事も
憲法9条には明記されている事を、知らない人が多すぎる。
日本は集団的自衛権によって、70年間戦争に巻き込まれずに済んだ事を、
現実の事として受け止め、理解し、多くの犠牲の上に存続している平和を
次の世代に繋げていく責任を、我々は担っていると思う。
毎年、戦争を考える旅行を続けてきて見えてきたのは、
多くの犠牲の上に成り立っている今の日本の平和と、
2度と戦争を起こさないために動いている人達が多くいる、
という事。
しかし状況は
戦後70年経って大きく変化した。
パワーバランスも変わり、
国際社会の在り方も変化している。
そんな中、70年前と同じような「武力による現状変更」を起こす事が
限られた大国にしかできない蛮行である事くらい、誰でもわかる事だと思うのだが。
戦後70年。
「戦争を起こさない」「戦争に巻き込まれない」
そんな日本にしていけるように自分は何ができるか?
という事を、
国民全員で考えるキッカケになる年に
なって欲しいと、心から思う。
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なんか恐いぞ
- 2015-06-28 (日)
- 日記的雑感
最近の報道は、恐い。
ここ数年感じてきた事だけど、
特に今年になって、より強くそれを感じている。
例えば25日、
自民党若手が自民党本部で勉強会「文化芸術懇話会」開催し、
講師に過激な発言で知られる百田尚樹氏を講師で招いていた。
政権与党の開催する勉強会だからか報道も集まったが、
私的な会合でもあるので最初の2分程度を公開しただけで、
後は所謂オフレコ状態で色々と話があった事が、情報として流れている。
ところが26日の報道では、
「マスコミを懲らしめるには広告収入をなくせば良い。
文化人が経団連に働きかけて欲しい。」
と出席議員が発言したとか、
講師の百田氏が
「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない。
あってはいけない事だが、沖縄のどこかの島が
中国に取られれば目を覚ますはずだ」
と主張したとして扱われた。
この報道を見て、気持ち悪い物を感じたのだ。
確かにこの時期、
性急に安全保障関連法案の成立を急ぐ与党には、
不安を感じさせる強引さが見えている。
だから、報道各社は
この勉強会が自民党本部で開催された事に触れ、
問題点を抽出して表現をしたかったのだと、思う。
ただ問題がある。
報道した通信社等は、
冒頭の2分しか取材が許可されていない状況については、触れていないのだ。
よく考えて欲しい。
2分間で、その会合の何がわかりますか?
この冒頭2分、というのはニュースソースを得るための時間で、
こんな人達が集まってます、というような写真(動画)を撮影し、
主催者やゲストの挨拶が続く中で、
「それではここら辺で(退席してください)」と言われて
報道陣は退席する、というのが通例なのだ。
結果、勉強会の内容を把握する事は、不可能に近い。
当然、勉強会の趣旨や内容については、
予め用意されているリリースや
会が終了した後に運良く記者会見等が開催されれば
そこからニュースを組み立てるのが流れとなる。
なのに、あたかも勉強会に参加したような書き方になっていて、
それがまず、気持ち悪いと感じさせたのだろう。
そして、勉強会の内容について、
通信社や報道各社から流れるニュースソースを鵜呑みにして、
そのままコピペしたようなニュースが報道各社から出た事から
大騒ぎになっていった、と。
その事に対して、事実は違うよ?・・と、
講師として出席し問題発言したと言われる百田氏は、
自身のツイッターを誰でも見られるように設定し、発言を公開した。
以下、引用
ーーーーーー
今日、自民党の本部で、自民党の若手の有志らによる「文化芸術懇話会」で講演した。
講演の最初の2分くらい報道陣がいたので、その2分で、マスコミはどうあるべきかを話した(^_^;)
ーーーーーー
ギャグで言った言葉を切り取られた(>_<)
しかも部屋の外から盗み聞き!
卑劣!
ーーーーーー
それにしても、報道陣は冒頭の2分だけで退室したのに、
ドアのガラスに耳をつけて聞き耳してるのは笑った。
しかし、正規の取材じゃなくて盗み聞きを記事にするのは、ルール違反だし、卑劣だろう!
ーーーーーー
質疑応答で誰かが「沖縄の二紙は厄介ですね」と言ったから、
私が「ほんま厄介、つぶれたらいいのに」と軽口を言ったのだが、
そこで会場は大笑いで、その話題は終わり。
そのあと別の話題に移り、沖縄の二紙の話はその後一切出ず。
ただ、一言の軽口を記事にされた。
ーーーーーー
質疑応答で、一部の議員から
「偏向報道するマスコミを、スポンサーに圧力をかけてこらしめるのはどうか?」
と質問されたが、
私は即座に「それはやってはいけません」と答えている。
ドアのガラスに耳をつけていた記者は、その発言も聞いてるはずだが、
それは記事にしない。
ーーーーーー
私はテレビやラジオで、不特定多数の人に向けて発言したものではない。
また広く知らしめるために発言したものでもない。
あくまで私的な集まりの場で、しかもクローズな場において、軽口で言ったものだ。
それをドアのガラスに耳をつけて盗み聞きして、書くのはどうなのか。
ーーーーーー
私も言論人である。弾圧やその他の力で言論を封じるのは断固反対である。
それはファシズムか共産国である。
たとえば私は朝日新聞に潰れてほしいと思っているが、そのココロは、
多くの人が朝日はひどい新聞と気付いて読まなくなる時代がくればいいと願っている
という意味だ。
弾圧で潰すものではない。
ーーーーーー
もし今回の発言で、私が謝罪させられたり、社会的に葬られたりしたら、
今後、内輪の席であっても、誰も「○○新聞はつぶれろ」と言えなくなるなあ。
密告や盗み聞きで、その発言が新聞社に知られると、大変なことになる。
新聞社の悪口を言えば、社会的に抹殺される時代がくるかも(^_^;)
ーーーーーー
引用、終わり
言論人なら、言葉の使い方を考えようよ・・という私見もあるけど、
そもそもマスコミに載せるべく情報開示された公的な会議では無い事や、
盗聴により報道された百田氏の発言の中に
「沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」の部分については
彼のツイッターを読む限りでは存在しないようにも思えるので、
違和感を拭えないし、捏造された?という疑問すら湧いてしまう。
でも、私がその会合に出ているわけではないので、
報道が正しいのか百田氏の言い方が正しいのかは、判断できない。
ただ、
「表現の自由」がある国においては、偏向した表現をしても許されるはずで、
偏向報道も偏向意見も、どっちも認めないといけないと思うのだ。
そういう意味で、
私的会合で偏向した意見を述べた事を報道各社が攻撃するのは、
本当に気持ち悪いのだ。
報道機関は色を持っても良いと思っているけど、
違う色を認めないのは自分の色を否定する事にも繋がると、
何故わからないのだろうか・・・と。
報道の現場に近い仕事をしているから感じる事だけど、
通信社が流す速報ニュースや、
官庁や各社から流れる「投げ込み」と言われるリリース(報道資料)を、
裏も取らずにそのまま扱う気配が、報道の中に蔓延しているのは事実だ。
その結果、今の報道各社の情報信頼性はもの凄く低く感じてしまうし、
各社の報道だけではなくあらゆる方面から情報を集めないと、
問題のアウトラインが見えない状況になっている、とも感じている。
だからだと思うが、
どうしても気になる事は裏を取りたくなるし、
可能なら現場に行って、この目で確認したくなってしまう。
そして、その現場で感じた空気を映像として切り取れたら、
そこに写る物を見ながら、物を考えたいって思ってしまうんだろうね。
裏が取れてない情報が流れまくる今の社会は、
「なんだか恐い」って思うんだけど、
それって私だけが感じている事なのでしょうか、ね?
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