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日記的雑感 Archive
Yippee-ki-yay!
- 2013-05-19 (日)
- 日記的雑感
今年のテーマを「人」にして撮りたいと書いたけど
同時にもう一つテーマを持とうと思っている。
それは「横浜」
異文化が共存してこれた街として。
だけどその横浜でも
ごく限られた地域だけがそうであって
ちょっと外れれば逆に抗争が起きるくらいに
差別が存在していたのも事実。
最近の色々の報道を見ていると
何かに反抗するための誘導や
ナショナリズムを必要以上に煽る物言いもあって
正直、自由と平和の上に成り立つ戯言に気付けない人達の
脳天気さに怖ささえ感じてしまう。
わかっていても言わない、
という事はある。
日本人の中には特に。
それを他国の人は理解できないと決めつけるのは愚かで
違う文化で育っても同じように言っていけない言葉を持っているし、
それを敢えて使うなら覚悟も必要となる。
そしてその結果は
間違いなく誰かを傷つけ、
結果的に数倍となって自分に還るものだ。
だから社会で生きるには
想像力が必要になる。
しかし今は
想像力が無くても失敗しない
マニュアル文化になってきた。
だから思いやりの無い言葉が
多く飛び交う事になるんだろう。
そして気づけば
理路整然とされる自己肯定の言葉が通ってしまい
その自己中心的な論理が持つ両刃の切れ味に
自らも傷つく結果が溢れかえる・・・と。
横浜は
本当の力と
相手を思いやれる強さと
一緒に生きようとする優しさが
存在してきた場所だ。
今一度、
その事を感じたい。
考えたい。
そう思うからこそ
自分の感じる横浜がある風景を
ポツポツと撮ってみようと思っている。
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お願い
- 2013-05-04 (土)
- 日記的雑感
気分を変えるのには違う環境に身を置くのが良い・・とは思うけど
結局は心の問題が大きいからただ単に何処かへ行っても何も変わらない、
というのが今までだった。
もちろん今だって
そうなんだけど。
でも、ただただ仕事をしているより・・と珍しく読み物をしてみたら、
不思議なほどに、心の位置が動いたように思う。
違う心の動きの中に没頭できるほど感情移入ができる、
という事が
あらためて日常を維持するためには必要なんだ、と
思い知らされたのも事実。
昨日までは
何のためにこうやって日々をすごしているんだろう?
って思いに振りまわされていたのにね。
今年は、人を撮ろうと、思っている。
来年はそれを何等かの形で発表できるように
兄弟達だけに限らず、多くの人を撮ろうとおもっている。
何故かは上手く言えないけど
そこにはちゃんとその人が持つ何かが写り
それを見た私の表現も写るから。
そしてそれは
やっぱりこの表現方法が一番自分らしくあり、
一番表現したいものが出るからだと、思う。
昨日も実は人を撮っていたけど、
撮影している時私は、よく笑っているらしい。
仕事をしながら笑っている・・なんて事は
今の環境では有り得ない事。
でも撮影が
食べるための作業になったら
やっぱり苦しくなるだろう。
自分の表現したい事だけを撮るのは
作家活動の基本。
そして私がしたい事もそれだ。
その活動だけで食べられる人は本当に少数だから、
今の形が一番合理的なのだと思うし
この形でなければ続けられない。
だからやっぱり
もっともっと撮るしかないんだろうね。
という事で私が
「写真撮らせてね」って声がけしたら
協力、よろしくお願いいたしますm(__)m>ALL
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独り言
- 2013-04-21 (日)
- 日記的雑感
ここのところ
文章書いてないよね。
毎日、「喰撮」に書いてるから
それで満足してるのかも知れないね。
でも実際は、かなり忙しいし、
書けば説教臭かったり愚痴っぽかったりで
自己嫌悪で消すってパターンが、
かなり多くなっちゃっただけ、なんけどね。
たぶん、
色々な事がわかってしまった事と
どうにもならない現実の重さに
気持ちが押しつぶされているんだと、思う。
視点を変えれば、
利用されるばっかりの毎日で
自分でも何故?って思う事は多いし、疲れる。
でもそれで救われるって事もあるのは
自分の存在意義を感じられるから・・なのだろうし、
頑張る力にもなっていたりするから、かも知れないしね。
感謝が少ない人(しない人?)、
多いよね。
いや、私が気付かないだけなのかな?
自分、感度が落ちたかな・・・
写真にはちゃんと空気が写るのに、
人の気持ちが心には写らない・・・・のかな。
伝わる言葉を持てない環境に
長い時間いるのが良くないんだろうとは思うけど。
つらいですわ。
実際。
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55
- 2013-03-30 (土)
- 日記的雑感
今日、私は、55歳を迎えた。
一昔前なら、定年退職の歳だ。
そして実は、
今月の頭には自主的に定年を迎えるつもりさえ
あった。
去年の誕生日には、
可能な限り公平な環境作りを進めたいと、
書いた。
そしてそれは嬉しい事に、確かな形となって実現できた。
(勿論、完全な形ではないけれど)
ただ、公平を実現したいと言ったからには、
スジを通し、決まりを守るのは当たり前。
過去に設定された管理職規定の準用により
55歳定年となっている管理職を退くのも道理だ。
そして退いた後、
今の私にできる仕事は身体のせいもあって多分存在しないから、
ならば次の生き方を・・と考えていたのだ。
だがその規定は昨日の会議で正式に解除され、
まだ頑張れる事があるだろう今の仕事を、
続けられる事となった。
今年のテーマは
「持続可能」
いつまで私が頑張れるかわからないし、
属している集団での時間も、長くない。
だから次へ繋ぐ事や、道筋、道標、
そして仕掛けは、
できるだけしておきたい。
だが問題は、
その「精神」がちゃんと伝わるかどうか。
今年の新入社員は
「自走型ロボット掃除機」と表現される。
障害を避け、器用に掃除(→仕事)をする事ができても
障害を乗り越える事はできず、障害だらけだと動けなくなる・・・
というパターンがあるとか。
しかしそれは、新入社員に限らず今の多くのスタッフにも当てはまり、
ひょっとしたら社会全体の傾向かも知れないと、思ったりもする。
例えば、ある問題が起きた時、
「問題点を追求するより対処が先」という考えを持たず
「何故こうなった?」と怒鳴る上席がいたら?
そう、その問題は大きくなるばかり、だ。
本来上席は、
速やかに優先順位を判断し、
解決のための道筋を示し、
チームを有機的に動かす義務がある。
なのにそれを行わず「何故こうなった?」と怒るなら、
それは、問題に対する責任回避(犯人捜し)を考えている、
という事になる。
そしてその時点でその上席の存在価値は
「害」になるワケだ。
これは「テクニック」の問題ではなく
「常識」の問題だ。
そして私の世代がなんとなく持っていたそんな「常識」が
どうやら「融通の利かない面倒な事」として捉えられ
大多数の非常識に取って代わられてしまったように、感じている。
だからこその「持続可能」だ。
その「精神」と「仕掛け」を
どれだけ施す事ができるか。
それを今年のミッションとして
もうちょっと頑張ってみようと思っている。
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春うらら
- 2013-03-27 (水)
- 日記的雑感
ここのところの悩みは
不公平。
世の中「好き嫌い」と「運」と「タイミング」で
どうしても不公平になるもの。
それに一々腹を立てても意味無いと諦めはつくし、
無駄なエネルギーを使わないように生きてもいる。
でもまた、
以前のように、心に痛みを伴う動きを余儀なくされて、
それを強いている人達には嫌気も感じ、
同時に自分の中で消化できない気持ちが生まれて、
正直持て余しているのだ。
今の世の中、私見だけど
自分だけの事を大事に動く人が生き残り
物も言わず必要な事を行う人は忘れられるように、見える。
そしてそれは、
人間社会では当たり前の事だと、思ってもいる。
それでも昔は、世の中を客観視できる人が多くいて
黙々と作業する人達に労いの言葉もかけられていたから、
救いがあったのだろう。
そして必要な事を黙々と作業する人達が多くを支え、
その上で胡座がかける事を知っている人が上に立って
社会はどうにか「スジ」を保っていけたのだと、思う。
今は「スジ」も「ルール」もそっちのけ。
アピールした者が勝つばかりの世の中になって、
「恥」も知らず「誇り」も持たず、
「勝ち負け」と「損得」だけを物差しに
利己主義に生きる人達が社会を動かしているように、
見えてしまう。
いや、良いんですよ。
「ギブアンドテイク」がちゃんと為されるのなら。
公平に扱われれば、腹もたちません。
でも
テイクする人ばかりが偉そうで
ギブする人ばかりがすり減っていて
折り合いをつける範囲を超えているように
見えているんですよ。
「決まり」や「スジ」を考えて
用意周到に準備はしても、
僭越や越権をしないように動いても、
指示は無いから、それ以上は動けない。
なのに
「何もしない」
と詰られて禄を削られるなら
やっぱり我慢は難しいって事・・なんですよ。
身体に無理が効かないから
ローライドなスクーターか軽いオフ車でも買って
どこかにプラッと行ってしまおうか・・・と思っちゃうのは
気持ちよさそうに走るライダーの姿を見かけるからか。
今の時期のバイクは
楽し過ぎるからね。
明日、
笑っていられるかなぁ・・・・
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