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2015-01-07

布施

今年の年越しは
色々気づいたり考える事があった。
 
「情けは人のためならず」と生きてきても
自分への戻りは気持ちの問題だけ。
視点を変えれば
利用されまくったようにさえ見えてしまう。
 
でも、やっぱり
自分の行為は自分をどうにか支えたと
気づく事もできていた。
 
大事に思って自分の欲は忘れて
できるだけの事をやってきても、
その結果がよく見えない事は当たり前で、
だから自分が、何を頑張っているのかもわからない
という気持ちに苛まれた1年でもあった。
 
同時に、
年を越す時、社会人としての寿命がリアルに感じられた
って事も大きかった。
  
後、こうやって今までと変わらずに動けるのも
3回しかないんだな・・と思えば、
残された寿命を全うする時間をどうやって生きていくか・・は、
リアルに考えなくてはいけない、とも思ったのだ。
 
 
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思えば
私の世代にとっては
必ずお目付役やご意見番と言える大人がそばにいた。
 
「小僧、その考えは優しくないぞ」とか
「その考え方は間違っているぞ」とか
理路整然と指摘してくれる大人がそばにいたように、記憶している。
 
では、今はどうなのか?
 
そもそも「これが正しい」と自信を持って指摘できる人が
恐ろしいほど減っている・・・と感じてしまう。
 
その上、年齢差のある関係で、説得力ある話ができる人間が
実に少なくなってもいるのだと、感じている。
 
 
何故だろうか?
 
それはたぶん
アメリカ的な教育のせいだと
私は思っている。
 
それまでの日本独自に育んできた文化を否定し、
アメリカ人が理解しやすい人間に育てるための教育のせいだと
思っている。
 
 
日本は、島国だ。
 
外敵が殆ど来なかった国として
長きに渡る歴史を育んでこれた国だ。
 
士農工商という階層設定があったけど
そのトップに立つ階層には、
名を重んじ、誇りを守る為に死ぬ事を求められていて
その判断・行動には常に「自らの命をかけて」という責任が伴っていた。
 
だからこそ侍は、必死に生きたのだと思うけど、
それ以外の階層はどんな生き方を良しとして生きたか・・と言えば、
それはやっぱり仏教の教えだったのだと、私は感じている。
 
 
我が家は
真言宗の教えを守って生きてきた。
 
布施という言葉があるがその意味は
人に慈しみの心を持って接し、
人々に自分の財産を与え(財施)
仏の教えを説き(法施)
怖れを取り除く(無畏施)
などを人に施す事となっていて、大切な修行の一つとなっている。
 
他の修行としては
「持戒」=ルールを守ること
「忍辱」=苦難にあって堪え忍ぶこと
「精進」=修行に励むこと
「禅定」=精神を統一すること
「智惠」=心理を見極めること
というのがあるが
これはひょっとしたら日本人が基本的に大事にしてきた生き方その物では?
と思ったりもする。
 
もちろん、自分の財を人に与え・・というのは難しいから
「無財施」という自分の財を使わずにもできる布施もある。
 
「眼施」=人に接する時に優しい眼差しをする
「和顔施」=人を和ませる穏やかな笑顔を見せる
「言辞施」=相手を思いやる優しい言葉を使う
「身施」=相手を思いやる行いをする
「心施」=相手を思いやる心を持つ
「床座施」=身体の不自由な人などに席をゆずる行い
「房舎施」=自宅を利用して社会奉仕などを行う
 
という7つがあるのだが、
これを見れば、日本人が基本的に持ってきた大事な行いは
仏教がそもそも教えてきたものだ、と考えられるのではないだろうか。
 
そう
お前それは間違ってるよ・・と指摘してきたのは
坊主だったと、思えるのだ。
 

でも
そんな教えや生き方をひっくるめた文化を否定したのは
アメリカだと思う。

ところがそう簡単にはいかない。
 
ギネスに認定されるほど続いている国家に根付いた文化は
ちょっとやそっとで廃れるほど柔じゃない。

それぞれの家では、
生き方として、家風として、
家そのものを大事にする考え方として染みついてきた文化は、
ちゃんとした家であればあるほど、
躾という名の教育がなされ、恥の概念も教え込まれてきた。
 
だから、日本人の考え方の基本として
今も脈々と生き続けているのだと、感じている。
 
戦後の復興、右肩上がりの高度成長期、
他人を蹴落としてでも人の上を行けばそれだけ儲かる時代があったから、
「そんな教えはくそ食らえ」と利己的に生きる人達も多くなったけど、
それでも社会のトップにいた人達は、日本が大事にしてきた生き方を外れずに
ここまでの国に育ててきたのだと思う。
 
 
ただ、
そんな世代の最後年代がリアルに社会からリタイアをしてしまった今、
押さえつけられていた利己主義な世代がトップを張って、
日本は本当に占領下の国らしい様相を見せてきた。
  
主権在民は聞こえが良いが、
国民一人一人が実は何の権利も持てない今の日本。
 
「スジを通せ」と言ってもそのスジが何だかわからない社会、
そもそも日本が大事にしてきた「スジ」という物が何であったのかも、
見失いつつある。
 
だからこそ
仏教の教えにもヒントがあると
今頃になって気づいたのだろう。
 
島国故に大事にしなくちゃいけなかった思いやりや、
そもそもの国の名前「大和」にあるように、
大きな和を持って国となしている自分たちの社会を、
大事に、大切に、育み、守り、次の世代に繋げていく事が
今の日本には一番大事な事なんだと、
この歳になってやっとわかったような気にもなれたのだろう。
 
 
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考えてみれば
自分の生き方はいつもそうだった。
 
表面的に場を和らげたり盛り上げたりする事が苦手だったけど、
見えないところや、気づかれないところでこそ
思いやりを持って動きたいと心がけ、
そうやって生きてきた事だけは確かだと、思っている。
 
実に利己的な考え方だったと思うけど、
気づいてもらえなくても、誰かの助けになっている事ができているなら
それは自分を救う事と同じだと考えられていたから、
自分の中で折り合いがついてきたのだと思うけどね。
  
 
そろそろ、時間が無くなってきた。
同時に力を失う時期も見えてきた。
 
それは自分にとっての布施の方法を
変えなくてはいけない時期が近づいた、という事でもある。
 
 
新年早々
そんな思いを込めての提案を上席に投げてみたんだけれど、
残念ながら反応は芳しくない。
 
でもそれも
ある意味「流れ」なのだと受け止めている。
 
 
できる事をできるだけやろう。
 
無理はしないけれど
漏れは無いように粛々と。
 
そして、その先を見据えながら、
生きていければ良いと思っている。

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