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戦後70年

気がついたら、
毎年この時期には「戦争について考える旅」をしている。
 
広島詣から長崎、そして去年は知覧へ・・と、
行く先も色々になってきた。
 
「あまりにも大きな犠牲の上に、今がある」という事を
感謝しながらも、知識も深める、という勝手な考えなのだが、
頂いた命を大事にしないといけないねって、毎回思わされてきているのも、事実だ。
 
 
8256Dcm
 
 
その日も、暑かったのだろうか。
 
片道切符の飛行機に乗って沖縄を目指したパイロットは、
同じこの海を見て、何を思っていたのだろうか。
 
私は鹿屋に向かうために
錦江湾で船上にいた。
 
 
去年行った知覧は陸軍の特攻基地。
だから今年は海軍の特攻基地であった鹿屋基地へ行く事にしていた。
 
鹿児島中央からの鹿屋直行バスに乗ると、
バスはフェリーに乗って桜島の脇を横切って大隅半島に向かう。
 
知覧とは錦江湾を挟んで反対側に位置する鹿屋基地は、
特攻基地として有名な知覧よりも規模が大きく、
現在も海上自衛隊の基地として使用されている。
 
 
規模が大きければ特攻に出撃した人数も違うのか?
と調べてみれば、
知覧基地からは402人出撃したと記録にあり、鹿屋基地からは828名が出撃とあった。
  
 
倍以上の出撃?
 
ちょっと驚いて調べていけば、
そこにはミサイルのような「桜花」という特攻専用ロケット機の出撃基地
でもあった事がわかってくる。
 
それなのに、
特攻基地としてはあまり有名で無いのは、何故だろう?
 
それも気になっていた。
 
 
8268Dcm
 
 
出迎えてくれたのは
二式大艇だった。
 
資料等で見た事はあったけど、
まさかここで出会うとは・・・
 
説明文を読めば、現存する唯一の機体とある。
 
その大きさに驚き、
そして想像以上に幅が狭い事にも驚きながら
資料館に入った。
 
 
8272Dcm
 
 
見学経路は、日本の海軍の歴史を辿るコースとなっていて、
大東亜戦争についても、端緒から終戦に至るまでちゃんと展示されていた。
 
その中で驚いたのは、
日本が戦争に突入せざるを得なかった客観的事実を
ちゃんと示している事だった。
 
 
大東亜戦争が始まる4ヶ月前、
日本は、アメリカ・イギリス・オランダなどにより
石油やゴムなどの資源の輸入を止められ、経済封鎖を受けていた。
 
対して日本は、
日米交渉の中で資源輸入凍結と経済封鎖を解除すれば
南方への進出を止めると譲歩する交渉を続けていた。
 
そんな中、コーデル・ハル米国国務長官は
1941年11月26日アメリカ提案(通称ハル・ノート)を突きつける。
 
そこにあったのは
 
 1日本軍の、中国およびインド(フランス領)からの無条件撤退
 2中国における蒋介石政権以外の政府・政権の否定(満州国の否定)
 3日独伊三国同盟の一方的解消
 
という内容だった。
 
簡単に言えば、
明治維新前の日本に戻って西洋諸国の言う通りに生きろ、
という事になるこの提案を、
既に資源凍結され生活困窮状態に陥っていた日本は、
最後通牒として受け取ったと、言われている。
 
で・・
このハル・ノートの存在については、
学校教育の中では教えられていなかったと、記憶している。
 
ただ私の場合は、戦前生まれの母親や祖母から、
当時の状況や考え方を多く聞かされていて、
学校で教えない昭和の歴史については、自ら色々調べて知っていたのだけど。
 
 
8331Dcm
 
 
そんなハルノートの存在を、展示の中ではっきり謳っているのを見て、
ここが自衛隊の基地内にある資料館である事を考えてしまう。
 
国防を担う人達には
何故、戦争が起き、何故自衛隊が存続しているかを知るために、
ちゃんとした昭和史の教育もされている、という証明にも見えたからだ。
 
ただ、自衛隊の現在も使用されている基地内にある資料館、という事。
そして交通の便の悪さ。
海軍から引き継ぐスマートな在り方を大事にする、海上自衛隊のスタンス。
  
そんな事が複合的に絡んで、特攻基地としての存在感を
強く前面に打ち出す動きは避けられたのであろう・・と想像もできた。
 
つまりそれが、
この資料館があまり有名ではない理由なのだろう、と。
 
 
海軍魂の顕れにも似た存在感を感じ、国防に対する考え方を垣間見て、
感慨にも似た感情を持ちながらも、展示を見て回ると
今回撮影が許されていた零戦(A6M5)に出会う事ができた。
 
 
8280Dcm
 
 
去年知覧で見た隼(キ43)や飛燕(キ61)とはちょっと違う佇まいでいる零戦は、
平成4年に海から引き揚げられた2機を使って再生されたもの。
本物の持つ凄みは同じとしても、海軍らしくスマートに見えた。
  
その勇姿を見た後に待っていたのは、神風特別攻撃隊の記録。
出撃されたパイロットの勇姿だけではなく、どのように扱われたかを
例えば当時の新聞等も交えた展示で、淡々と説明されていた。
 
出撃された人達の肖像写真は、何故かとても格好良く見える。
 
知覧のそれは、リアルに人物が伝わる親しみ深い表情を浮かべる人が多かったのに、
鹿屋の並ぶ表情は、誰もが涼しげな表情を浮かべているのだ。
 
ただ、彼等の手紙を読めばやはり、当時の日本の状況が見えてくる。
愛する人達を守るという思いを表現しながらも、どこかに無念な気持ちが
その文面や筆跡に顕れていた。
 
 

8314Dcm

 
 
ありがとうございます。
おかげさまで日本は戦後70年の間、
大きな戦いに巻き込まれる事もなく平和な暮らしを実現できています。
 
そして2度とこのような事態にならないよう
主権者の1人として生きていたいと思っています。
 
 
そう心の中で、出撃者の遺影に語りかけ、
展示を見て回ると、頭をぶん殴られた気分にさせられた。
 
そこには、出撃者の名簿が一面に印刷された当時の新聞があったからだ。
 
こんなにも多くの人が
国を守るために命を散らしたのか・・という思い。
 
そして、その名簿を新聞一面に示す新聞社の道義的責任を、
生き延びた新聞各社は、どう考えているのか?
と考え込んでしまった。
 
 
8339Dcm
 
 
戦争は、2度と起こしてはならない。
 
人と人が殺し合うような事態は、
避けなくてはならない。
 
今、あまりにも短絡的な感情的闘争が起きているが、
大事な事はなんだろう?
 
戦争にならないように、
あらゆる手を打つ事ではないだろうか?
 
 
侵略的行為が起きた場合の備えについて
その方法論を交わすよりも、
侵略的行為を受けないようにはどうずべきか?
という事が、真っ先にしなくてはいけない事なのだと思う。
 
 
8329Dcm
 
 
国権の発動たる戦争を、日本は憲法により禁止している。
 
しかしそれは、自衛のための戦いを排除している事ではなく、
自衛のための軍事力を持つ事を排除していない事も
憲法9条には明記されている事を、知らない人が多すぎる。
 
日本は集団的自衛権によって、70年間戦争に巻き込まれずに済んだ事を、
現実の事として受け止め、理解し、多くの犠牲の上に存続している平和を
次の世代に繋げていく責任を、我々は担っていると思う。
 
 
毎年、戦争を考える旅行を続けてきて見えてきたのは、
多くの犠牲の上に成り立っている今の日本の平和と、
2度と戦争を起こさないために動いている人達が多くいる、
という事。
 
しかし状況は
戦後70年経って大きく変化した。
 
パワーバランスも変わり、
国際社会の在り方も変化している。
 
そんな中、70年前と同じような「武力による現状変更」を起こす事が
限られた大国にしかできない蛮行である事くらい、誰でもわかる事だと思うのだが。
 
 
戦後70年。
 
「戦争を起こさない」「戦争に巻き込まれない」
そんな日本にしていけるように自分は何ができるか?
という事を、
国民全員で考えるキッカケになる年に
なって欲しいと、心から思う。

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